これはおいしいお寿司

No.11

雨の匂い

–雨が嫌いなレオナ

 雨の匂い
 レオナ・キングスカラーは雨の匂いが嫌いだった。
 故郷では訪れを乞い願われ、恵みと呼ばれる雨だが、ただただレオナは気分が憂鬱になるばかりだった。
 空気は湿気を含み、それを吸い込むだけで体が重くなる。触れるものすべてから水分を感じ、己の体まで濡れるのが気に障る。四肢の不愉快が脳にまで響くのか、頭が怠くなる。目を瞑っても上手に眠ることができない。
 レオナの普段の生活を知っている者は皆、いつものことだと笑った。
 憂鬱を運んでくる雨の匂いが嫌いだった。

 雨が近い。
 寮長室に引きこもっていると余計気分が落ち込むような気がした。かといって談話室に行くと寮生が立てる騒音が耳について頭痛を引き起こしそうだ。レオナは談話室からほんの少し離れた、人があまり来ない廊下で横になった。床がひんやりとしていて心地よい。また、うるさくない程度に人気を感じて、心が落ちすぎないのもよい。
「ジャックくん、ジャックくん、ちょっと今ユニーク魔法使ってみてよ」
 ラギーのはしゃぐ声が聞こえた。
「は、いくらラギー先輩のお願いでも今は聞きたくないっすね」
 反してジャックは不機嫌そうな低い声で、ラギーの言葉をはねのけた。
 あのジャックが、という意外さにレオナは頭を上げ、声の方を見た。
 談話室で向き合うラギーとジャックが見える。いつもの光景だが、どうやらジャックはご機嫌斜めのようである。
「ちょっとだけだから」
「マジでそういうの無理なんで」
 ジャックの暑苦しさを厭うラギーが珍しくジャックにへばりついている。今日は一体なんなんだ。
「お願い! 明日一瞬だけ兄貴呼びしてもいいから!」
 ラギーにそこまで言わせる理由はどこにあるのだろうか。
 控えめにジャックの尻尾が揺れ、だんだんと揺れが大きくなっていく。そんなに兄貴呼びをしたかったのか。
 ごまかせないと悟ったジャックが「はあ、わかりました。一瞬だけっすからね」とため息をついた。
「やったー!」
 両手を挙げて喜び、ラギーは一歩ジャックから離れた。
 すっと息を吸い、静かな詠唱ののち、談話室に巨大な狼が現れた――本当にあれは狼なのだろうか。
「あっははははこれが見たかったんスよ!」
 ラギーの大笑いの前にいるのは巨大な白い塊だった。
 白い塊は不機嫌そうに唸った。
「毛が爆発してるジャックくんを見ると、気分が最高になるんスよね」
 ケラケラ笑うラギーに一歩踏み出すと、ラギーは笑いながらすっと二歩下がった。
「見てる分には面白いっスけど、暑苦しいし湿気でチクチクするんで、それ以上は近づかないでほしいスね」
「だから嫌なんすよ、この駄目兄貴が」
 人型に戻ったジャックが腕組みをしてラギーを見下ろした。
「呼んでもいいって言ったの明日っスから」
 一瞬真顔になったラギーが冷ややかに言い、また笑い出した。
 一部始終にあっけにとられたが、我に返ると怠さが和らいでいることに気がついた。軽くなった体から力を抜くように息を吐き、そのまま目を瞑った。

「先輩、こんなところで寝てたら踏むんですけど」
 ツンツンと拗ねた声に起こされた。
「こんな固いところじゃなくて、自分の部屋で寝てればいいのに」
「……雨が、近い」
 それで、怠くて寝床を探してた。
 ふと言葉が口をついて出た。
 どうせいつものことだろう、と言われるに決まっている。目を固く瞑って返事を聞かないように深呼吸した。
「ああ、低気圧やら湿気やら最悪ですからね」
 せめて何かかけないと風邪引くんで、と薄いタオルケットをかけられる感触があった。
「普通の人も天気が崩れると体調を崩すらしいですし、俺みたいに毛量が多い獣人属は体中の毛が爆発してイライラしますし。そんな日もありますよね」
 じんわりと温かいものが鳩尾にまで降りてくる。
 レオナは肩までかけられたタオルケットを握りしめた。
「雪国の獣人属はこういうところに来ると、すげえからかわれるんすよね。ラギー先輩も雨が近づくたびに笑ってきやがる」
 大きなため息をつくが、どこか楽しげな雰囲気すら感じる。
「家族旅行で湿気の強い国に行ったとき、妹が体がむずむずして眠れないと泣いたんすよ。とりあえず隣にいてやったんすけど、暑いからあっちに行ってと余計に泣かれて。仕方ねえから、冷たいハンカチをおでこに置いて離れたんですけど。次はおやすみのキスがないと眠れないと言い出して。どうしろって話っすよね。まったく困った妹ですよ」
 誰かに教わったのか、周囲の湿度が一気に下がる感覚がした。
「よし。低気圧まではどうにもできないですけど、ベタベタする感じはマシになったと思うんで」
 じゃあ、と重たい足音がレオナから離れようとする。
「……なあ」
 レオナのしわがれた声に、足音は止まる。
「俺におやすみのキスはしちゃくれねえのか」
 どこか遠くで、針を落とす音が聞こえた。
 足音の主が空気を緩やかに震わせた。
 床に膝をつける音がすると、温かな手に前髪が掻きあげられる。
 一瞬額に息がかかり、そして乾いた感触が落とされた。
「困った先輩ですね」
 レオナは目を開き、穏やかに笑って唇をそっと舐めるジャックを見た。
 たまらなくなり、ジャックの首飾りを引っ張った。
 湿気の香りが強くなり、やがて細い水の落ちる音が静かに始まる。
 徐々に激しくなる雨音が寮内に響き渡る。
 湿った唇の狭間から湿度の高い空気が吐き出された。
 レオナ・キングスカラーは雨の匂いが嫌いだったが――今日は悪くないと思った。

 

 

レオジャク_2week
Twitter投稿2023.6.3

レオジャク,SS

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