これはおいしいお寿司

No.77

ベールの向こう

-運命なので

 一

 音楽の授業が終わり、セベクは教師に言われて教材を片付けるために準備室に足を踏み入れた。
 掃除が行き届いているにも関わらず、古いカーテンが窓にかけられた小部屋はどこか埃っぽさを感じる。所狭しと物が床に置かれ、雑然としている。鼻にむずがゆさを覚えながら、セベクは年代物の戸棚を開けた。
「前回の担当は誰だ」
 授業で使用した楽譜をしまおうとして、隙間という隙間に楽譜が縦横構わず詰め込まれた惨状にため息をつく。ちらと壁にかけられた時計で時刻を確認し、窓を開けてから戸棚の中身をすべて取り出した。
 数分のち、きれいに縦に並べられた楽譜を見てセベクは満足げに長く息を吐いた。出版社や作曲者、年代での並び替えはできなかったが、見た目はだいぶよくなっただろう。棚の扉を閉じて出口へ足を向ける。
 と。
 視界の端で何かが動いた。
 反射的に腰を落としてマジカルペンを構えて対象を視線で追う。
 ひらり。
 閉め忘れた窓から秋風が吹き込み、部屋の隅で大きな棚のようなものに埃よけとしてかけられていた布が揺れていた。
 なんだ、ただの布か。
 警戒を解いて窓を閉めようと手を伸ばした瞬間、突然強い風に襲われた。思わずぎゅっと目を瞑って風が収まるのを待っていると、背後で物の落ちる音が聞こえた。風に煽られたのだろうと窓を閉めてから振り返る。床に落ちたデジタルチューナーを拾い上げ、近くの棚に置いた。今度こそ次の授業に向かおうと歩き出す。
 が。
 布が擦れる音に顔をしかめて部屋の隅を見やると、ゆっくりと埃よけの布が床に滑り落ちるところだった。
 そこには背丈よりも大きなキャビネットがあった。
 セベクは拾った布を片手にキャビネットを見上げる。ほかの棚とは比べものにならないほど古く、豪華で繊細な飾りが施されていた。茨の谷の由緒正しい家で代々受け継がれてきた家具だと言われても信じてしまいそうだ。ナイトレイブンカレッジは歴史ある学校だが、一体いつのものなのだろう。
 好奇心を抑えきれずキャビネットの扉に手を掛ける。扉に取り付けられた木製の取っ手はしっとりと手に馴染んだ。ゆっくり開くと、蝶つがいの軋む音とともに古い紙と埃の匂いが部屋に広がった。
 キャビネットの中には大量の紙がしまわれていた。慎重に一枚手に取ってみると、今にも粉々になってしまいそうなほどに朽ちかけた楽譜だった。擦れたインクで五線譜が引かれ、手書きの音符と歌詞が丁寧に記されている。
 脳内で音符を辿り詩をリズムに当てはめていくが、徐々に複雑になっていく譜面にセベクは目をしばたたかせた。きれいな旋律な気がする――がこれ以上は難しい。優しく楽譜をキャビネットに戻し、埃よけの布をかけ直す。
 今は授業に急がなくては。
 後ろ髪を引かれる思いでセベクは音楽準備室を後にした。



「きれいじゃがのう、なんとも気分が乗らない曲じゃ」
 夕食後、寮に戻りスマホで撮った楽譜の写真――授業が終わってから再度準備室を訪れ、一枚一枚楽譜を写真に収めたもの――をリリアに見せた。ソファに腰掛けたリリアは口ずさみながら譜面を追い、ふむと頷いた。
「これは未完成のオペラの楽譜じゃな。基本に忠実な作り方をしているところからして、学生が初めて作ってみたのではないかと思うが。雷が落ちたようなインパクトの強い出だしはよいアイディアだと思ったんじゃがのう、それ以降はずっとうら悲しい旋律が続いている。きれいではあるが、もう少し刺激がほしくなってしまうな」
 リリアからスマホを返されたセベクは、カメラロールの楽譜をスライドさせて眺める。
「歌詞から察するに、一目惚れをした相手と再会できず、恋心を抱えて想い人を探し続けるという物語かと思われます。途中で終わっているので結末はわかりませんが」
 このオペラの主人公は相手に再会できたのだろうか。古典作品は悲劇が多い。できればハッピーエンドを望みたいところだが、紙の崩れ具合やインクの擦れから数百年以上前のかなり古い作品であることが伺える。恐らくは再会できずに終わるか、再会できたとしても相手に恋人がいて悲しみのあまり命を絶つ終わり方をするだろう。
「この作曲家が大成したか気になるが、名もなき若人の初々しい作品として歴史にしまっておくのもまた浪漫じゃ」
 作曲家。
 リリアの言葉に目を凝らして写真を見ると、楽譜の隅に消えかかった「S.G」の文字が見えた。石板に尖った石で引っ掻いたような癖字だ。
「リリア様、S.Gというイニシャルに覚えはございますか?」
「ふむ。イニシャルだけであるなら何人かいるが、音楽が趣味の者はいなかったように思うぞ」
「……そうですか。きっとリリア様のお耳に届くような作品を作れなかったに違いありません」
「夢破れて歩む道を変えるのも若人の特権よ」
 くふふと笑い、あまり夜更かししないようにと言ってリリアは立ち上がった。セベクもリリアに釣られるようにして立ち上がる。並んで談話室を出ると、これからゲームの約束があるのだと言ってリリアはふわりと姿を消した。一人残されたセベクは薄暗い廊下を歩く。自分の足音がいやに反響し、冷気が首筋を撫でる。身震いをして自室への道を急いだ。
 部屋に戻り、気もそぞろなまま授業の予習と復習を済ませ寝支度を整える。もぞもぞとベッドに潜り込み、読みかけの小説を手に取るが目が滑って頭に入らない。リリアが口ずさんでいた曲が頭の中で小さく鳴っている。
 本をパタリと閉じて机に置く。そしてスマホを取り出して楽譜の写真を見た。旋律も歌詞も悲しくてセベクの好みではなく、ありきたりな物語で際立った才能が垣間見えるわけではない。それなのに、この曲が頭から離れない。布団にくるまってスマホを握りしめ、何度も歌詞を読む。瞼を閉じると、架空のソプラノ歌手が悲愴な声色で歌い、ソプラノ歌手の呼びかける声に気づかず立ち去るテノール歌手の姿がありありと想像できた。もし完成した作品がどこかに残っているのであれば一度は見てみたい、かもしれない。誰かが耳元で歌っているような気配とともにゆっくりと眠りに落ちていった。



 ハロウィーンの準備をしながらアマチュアの音楽家を探すのは難しかった。なにより、マレウスと学園で共に過ごす最初で最後のハロウィーンで、ほかのことに気を取られるのは断じて許しがたかった。
 耳元で誰ともわからぬ人の歌声がずっと鳴り響いていたが、セベクは聞こえないふりをしてマレウスやリリアの指示の下に準備を進めていった。
 準備期間中は大きな問題はなかったが、いざ当日を迎えるとスマホ片手に大暴れする客や、ハロウィーンに乗り遅れたゴーストに寛大にも同情したマレウスによって開催された余興で体力をすっかり使い果たしてしまった。これもハロウィーンの醍醐味と言われれば、よい思い出になったことには違いない。
 そういえば準備期間中に学園長に貴重な肖像画を見せられたこともあった。スカリー・J・グレイブスなるハロウィーンの偉人らしいが、どこか既視感を覚える風貌だった。あの日からふとしたときに手の甲がくすぐったくてたまらない。そのたびに、何かを忘れている気持ちに襲われる。一体何を忘れているのだろうか。



 ハロウィーンが終わり、日常に戻る中でセベクはまたS.G探しを再開した。とはいえ、インターネットが存在していない時代の人物だ。スマホだけで探せるはずもない。セベクは授業や鍛錬の合間を縫って図書館に通い詰めていた。
 音楽にまつわる本を棚の端から端まで読み地方の歴史書にも目を通したが、やはり見つからなかった。S.Gは在学中に作曲のまねごとをしてそのまま音楽から離れてしまったのだろう。何度か音楽準備室のキャビネットも覗いてみたが、あの曲の続きはおろかS.Gの作ったほかの曲すら見つからなかった。
 大量の本を棚に戻し、図書館の椅子に座って脱力して天井を見つめる。
 予想はしていたとはいえ、こうも見つからないとは。
「ああ、いいところに」
 うなだれていると、後ろからトレインの声が聞こえた。
「この本を資料室に運ぶのを手伝ってもらえないか。私には少々重すぎてな」
 振り向くとうっすら額に汗を滲ませたトレインが両手に本を抱えていた。
 セベクはつんと顔を上げ、それくらいわけないと立ち上がった。いつもであれば一言二言多めに言って小言をもらう場面であったが、疲弊していたのもあって了承の意のみを告げた。トレインから本を受け取り、隣の小部屋に入る。
 資料室には棚が置かれているが、どれも本や段ボールでいっぱいになっており、床には高々と積まれた本の山がいくつもできていた。
「学園長に棚を増やすか別に収納部屋を用意するように要請しているのだが、二言目には予算がと断られてしまう」
 どこに本を置くべきか困惑しているセベクに、トレインが言う。
 もっともらしい仕草で要望をはねのける学園長の姿が目に浮かぶようだ。
「このような貴重な本ですらまともに整理する余裕がないとは。嘆かわしい」トレインは嘆息して「そこの棚――の前にできあがっている山に載せておいてくれ」と眉間の皺をさらに深くした。
「本の山に」
 トレインの指した棚の前は既に膝の高さまで本が積まれていた。雑に触れたらすぐに崩れてしまいそうだ。本来であれば棚に丁寧にしまわれるべき資料なのだろうが、棚には本を一冊捻じ込める空間すら見当たらない。本は部屋のいたるところにうずたかく積まれており、整理するには相当な根気と時間が必要だと感じられる。トレインは終わったら声をかけてくれと図書館に戻ってしまい、不承不承セベクは本の山を慎重に高くしていった。
 分類もへったくれもない山を作るのは非常に簡単だったが、トレインに報告しようと資料室を出ようとしたとき、本の山に足を引っ掛けてしまった。その程度で転びはしなかったものの、本はセベクの体幹を持っていなかった。みるみるうちに傾き、近くの山を巻き込んで崩れていく。ドミノ倒しのように次から次へと床に本の山が倒れていくが、セベクはなすすべもなく立ち尽くすことしかできなかった。バサバサと硬い表紙が床に落ちる音がようやく収まったときには、もうもうと埃が舞い上がり視界が塞がれていた。目の痛みで涙がにじんでくる。
 セベクは埃を吸い込まないようにハンカチで口を押さえ、まぶたを強く閉じる。そしてゆっくりと目を開いた。
 目を閉じても、なかったことにはできなかった。先ほどまでは足の踏み場がギリギリ確保されていたというのに、今は床が本で埋め尽くされ、一歩も動けそうにない。セベクは眼の前の惨状にもう一度目を閉じた。
 やらねばならないのだ。
 己の迂闊さを呪いながら目をカッと開き、頬を手で叩いて気合いを入れた。
 舞っていた埃は落ち着いてきて、少しずつ遠くが見えるようになっていた。換気せねばと窓を探して周りを見渡していると、向かいの壁にかけられたものが目に入った。あの独特な形の、極めて彩度の低い――。
 埃の向こうに、ハロウィーン準備期間中に学園長が見せびらかしてきた肖像画が見えた。
 書物の保管のために光を絞っている資料室の中で、モノクロの衣装を身につけて真っ黒な額縁に飾られている中で、ただ真紅の瞳だけが鮮やかにセベクを貫いた。
 足元の本を脇に避けて再び山を築きながら、引き寄せられるかのように一歩ずつ肖像画へ近づいていく。辿り着く頃には両手は本の古い埃や汚れで真っ黒になっていたが、セベクは気に留めず肖像画を見上げた。
 今にも動き出しそうに感じるほど、彼の瞳は爛々と命の輝きを灯していた。思わず手を伸ばして触りそうになり、慌てて手を下ろす。手のひらをこすり合わせるとザラザラとした埃が床に落ちた。
 ――人の啜り泣く声、挨拶のようなリップ音。
 一瞬聞こえたそれに、誰かいるのかと瞬時にマジカルペンを構えてあたりを見回すが、セベク一人の気配しかしなかった。
 疲れているのだろう。早くトレインに作業終了の報告をしなければ。
 額に手をやり苦笑して足元に目を落とすと、自分が片付けた本の中に雰囲気の違う冊子を見つけた。絢爛豪華でしっかりとした装丁の分厚い本ばかりがこの部屋に保管されていたが、今見つけたものは作りこそ頑丈だが地味で表紙にタイトルはなかった。ハンカチで手のひらを拭う。好奇心でその本を手に取ると、表紙の隅に消えかけのインクで「S.G」と書かれていた。
 途端、心臓がバクバクと跳ねた。
 あの探していた音楽家か? イニシャルの筆跡は似ているように感じる。紙の朽ち具合もなんとなく楽譜と同程度に思われる。
 興奮で震える指先が表紙を開く。

 ハロウィン。
 それは静寂。
 それは素朴。
 それは清貧。
 静けさの中に真の恐怖あり。
 闇一色の中に這い寄る恐怖あり。
 慎ましさの中に未来の恐怖あり。
 これぞハロウィン。

 理解しない俗物のなんと多いこと。
 かのジャック・スケリントン様もこの世界のありようにはさぞ嘆かれることでしょう。
 我輩がハロウィンを広めなくてはならない。
 静寂で、素朴で、清貧で、恐怖に満ちたハロウィンを。

 あの独特な癖字で、一文字一文字刻み込むかのようにそれは書かれていた。
 ページをめくると、日付と思われる数字の下にびっしりと文字が連なっている。

 ○月△日
 今日は授業で世界の行事について調べて発表する時間があった。
 我輩は当然ジャック様由来のハロウィンについて発表した。
 普段から布教活動に勤しんでいることもあり、内容の濃い発表ができたという自信があった。
 しかし、皆々の反応は期待以下。
 誰もハロウィンに興味を示さない。
 誰もジャック様の偉大さに気づかない。
 悪夢のような一日を過ごせる素晴らしいイベントだというのに。


 びっしりと。
 それはもう余白という余白を埋め尽くさんばかりに恨み言が書き込まれていた。
 ぺらぺらとほかのページもめくり、どうやらこれはS.Gの日記らしいことがわかった。毎日ハロウィーンの布教をして遠巻きにされることへの不満や、ジャック・スケリントンという人物の称賛ばかりを書いているようだ。自分に都合のいいように書けるのが日記や私小説というものだが、客観性が欠けていることを念頭に置いていても、S.Gの性格は非常に難があることが推測できた。
 ハロウィーンがこのツイステッドワンダーランドに根付く前の日記ということだろうか。ハロウィーンが存在しない時代というものがそもそも想像できないのだが、かつて世界中に広めた偉人がいたという学園長の話と合わせるに、マイナーな行事であったことは確かなのだろう。そもそも今ツイステッドワンダーランドに広まっているハロウィーンの形とはだいぶ違う。時代と共に今の賑やかなハロウィーンに変わっていったのかもしれない。
「……ふん。うじうじとじめついた文章ばかり書く人間だとは思わなかったが、ハロウィーンは今は皆が楽しむ行事となっているぞ」
 面倒そうな性格だから、こんなのはハロウィーンではない! と嘆くかもしれないが。
 じめついた文章を書けるからこそ、あの繊細な旋律が生まれたのかもしれない。
 またページをめくろうとしたとき、突如ノックの音が聞こえた。驚いて日記が手から滑り落ちる。
「片付けは終わったかね」
 部屋に入りながら、トレインがいつもの厳しい顔で聞いてきた。
 セベクは日記に夢中になっており、資料室にいた理由をすっかり忘れていた。だが、頼まれていた作業は既に終えて、崩してしまった本の山も積み直している。少し長居しすぎたこと以外は後ろめたいことなどない。
 問題なく片付けが終了したことを伝え、トレインの後に続いて資料室を出る際に日記をこっそり拾った。

 一日の終わり、日課の読書の時間。
 セベクは読みかけの小説ではなく、制服に忍ばせていたS.Gの日記を開いた。

 ○月△日
 この日記を常に持ち歩いていたら、教室に忘れてしまってクラスメイトに読まれた。
 なんという恥。
 寮の部屋に置いておくのも今日のような手違いがあったらと思うと、怖い。
 同室は詮索好きで軽薄者だから、大切なものは置いておけない。
 なので、読書倶楽部の部室の棚に置いておくことにした。
 鍵がなく完全に安心できる場所ではないが、読書を嗜み作家の個性に惹かれる者たちが集まる倶楽部である。
 皆それぞれ秘密の棚を所持し、人の棚を覗いてはいけないという暗黙の了解が存在する。
 読書倶楽部の部員もハロウィンに理解を示してくれないが、我輩の熱意だけは認めてくれている。
 きっとここなら大丈夫だろう。


 セベクは小さく呻いた。
 これは人の恥を暴いている行為ではなかろうか。S.Gが厭っている同室者と同等のことをしているのは確かだ。このまま日記を読み進めてもよいのだろうか。
 ――いや、年代物の日記は貴重な資料だ。これは当時の風俗を知ることができる読み物で、また未完の楽曲を作ったと思われる人物の記録だ。もしかしたら楽譜についての情報を得られるかもしれない。図書館の資料室は、数年前までは文芸部の部室だったと聞く。文芸部と名前が変わる前は読書倶楽部だったという噂も聞いている。この日記が資料室にあったのは、部室に隠されたまま誰にも見つからなかったからだろう。もしかしたら歴史的な発見があるかもしれない。
 躊躇ったのは一瞬で好奇心には勝てず、どうにか理屈をこねくり回してセベクは読み進めることにした。

 ○月△日
 狼男やミイラ男といったホラー作品はたくさんある。
 恐ろしい闇の魔女が出てくる作品もある。
 人造人間の話だってある。
 今日もそういう本を図書館で借りて倶楽部の時間に読んだ。
 でも骨だけで構成された人は出てこない。
 探しても探しても、ジャック様の雰囲気を持った登場人物のいる小説は見つからない。
 我輩の出身地より蔵書数ははるかに多いけれど、この学園にはないのかもしれない。
 海の向こう、山の向こう、どこか遠くの国にあったら……。 
 
 ○月△日
 今年もハロウィンの日が近づいている。
 一人で過ごすしかない。
 少し憂鬱ではあるが、我輩の理想のハロウィンは孤独に過ごすことでより完璧になるような気もする。
 人が集まれば静寂は破られる。要素が一つでも欠けたらそれはもう大失敗だ。
 そう、だから一人でいい。
 一人でいいんだ。
 我輩だけが知っている、我輩とジャック様だけのハロウィン。
 それでいい。
 ……明日は古本市に行こう。
 手元の本はすべて読んでしまった。
 ジャック様にまつわる伝記があったらいいな。


 数ヶ月に渡り、S.Gはハロウィーンとジャックの話を飽きもせず書き続けていた。
 ジャックとやらのことは知らないが、信仰のような尊敬の念を抱き一途に慕い続けるS.Gの姿はセベクの胸をいたく打った。敬愛する人の存在を知らしめたい気持ち、素晴らしさを教えて回りたい気持ち、自分のことのようによくわかる。仰々しい修飾語が鬱陶しいが、読めば読むほど身近な存在に感じられた。

 ○月△日
 賑やかで。
 派手で。
 豪勢な。
 そんなハロウィン……。
 なぜだろう、古本市を訪れてからというもの、心が躍り出してときめきが止まらない。
 いつもうるさい同室者を誘うなんて!
 静寂とはかけ離れた日になることは間違いないのに、賑やかに過ごしたくなった。
 派手な色の装飾を作るなんて!
 素朴とは口が裂けても言えない雰囲気になってしまうのに、部屋を飾りたかった。
 ハロウィンのためだけにわざわざ衣装を作るなんて!
 清貧とは程遠いのに作りたくて堪らなかった。
 このアイデアは一体どこから?
 同室者には「ハロウィン」という言葉を出しただけで逃げられてしまったけれど、読書倶楽部の人たちには薄暗い魔女集会みたいなやつでなければ行ってもいいと言われた。
 初めて。
 初めて、ハロウィンを人と過ごすことができる!
 この素晴らしき日を誰かと共有できる!
 きっと、いつかきっとハロウィンそのものを理解してくれる人が現れるに違いない。
 こんなに希望があふれる日が来るなんて!

 ハロウィーン一色だった日記の内容に変化が現れたのは、ハロウィーンの翌日からだった。

 ○月△日
 昨日はとても充実した一日となった。
 嫌われるのが怖くてハロウィンの話もジャック様の話もできなかったけれど、皆で持ち寄ったホラー小説の話をしながらお菓子を食べる時間が楽しくて、門限も忘れていつまでも話し続けてしまった。
 こうしてハロウィンは楽しいものなんだとわかってもらうだけでよかったんだ。
 ああ、でもなぜだろう。
 時折目が眩むような緑色の閃光と、耳をつんざく雷鳴に襲われる。
 そのたび、動悸がする。
 病気かな?
 でも何か大切なことを忘れているような気がする。

 ○月△日
 何か、ではない。
 誰か、だ。
 誰かはわからないけれど、大切な人。
 一体どうしてしまったんだろう。
 名前も顔も声も知らない人を思い出したくて堪らない。

 ○月△日
 思い出したいのに思い出せない。
 あの人のことを想っていたら美しい旋律が頭に流れ込んできた。
 どこの誰かわからない、素敵な人。
 貴方は我輩のことを知っているのでしょうか。
 貴方のことを何一つ知らないから、曲は冒頭しか作れず。
 いつかこの曲が完成する日は来るのでしょうか。

 あの曲が生まれた経緯はなんとなくわかった。
 だが、謎が増えた。
 S.Gは誰を思い出したかったのだろう。なぜ突然ハロウィーンの信仰が真逆になったのだろう。
 セベクは重くなってきた瞼をこすり、栞を挟んで日記を閉じた。
 思い出したいのに思い出せないことなら僕にもある。


 S.Gのことをもっと知りたいと思ったセベクはその後、図書館や資料室に足繁く通った。だが、S.Gの日記を何冊か見つけるのみでほかの情報は得られなかった。
  

 
 二
 
 S.Gの正体がわからないまま時が過ぎ、セベクは二年生になった。

「シルバー!」
「なんだ、セベク」
 実行委員会の会議が終わり、隣を歩くシルバーに声をかけた。
「今年のハロウィーンのテーマがこんなものでいいのか」
「……悪くないと思うが。誰もが知るモンスターで恐怖を与えられるが、コミカルな一面も持っているから来場者の子どもたちが怖がりすぎない」
「昨年のマレウス様とリリア様が考案されたものに比べたら非常に見劣りがするではないか。お二人が研修に出られようとも、ディアソムニアの威光に陰りなしということを伝えなくてはならないというのに」
 廊下を歩く一般生徒たちがセベクの苛立った声に振り返る。
「俺の発想はマレウス様や親父殿の足下にも及ばないかもしれない。だが、少なくともお二人のお顔に泥を塗るようなものではないはずだ」
 シルバーのなだめるような言い方に、セベクは苛立ちを募らせる。が、口を開く前に深呼吸をして不満の言葉を呑み込んだ。
「……寮長はシルバーだ。貴様の指示に従ってやる」
 セベクが二年生に進級した年、マレウスとリリアは研修に旅立ち、寮長と副寮長はシルバーとセベクがそれぞれ任命された。寮の運営方針で揉めることは多々あるが、昨年よりシルバーに噛みつくことは減った……ように思う。何よりマレウスとリリアに、シルバーの言うことをよく聞くようにと言われている。学内にいないとは言え、二人はディアソムニア寮にまだ所属している。ここで名前に傷をつけるわけにはいかない。
「助かる」
 口元に薄く笑みを浮かべたシルバーに背中を軽く叩かれた。


 
 多少の妥協をしながら迎えた二年目のハロウィーンは、昨年に劣らず大盛況だった。むしろ、昨年の評判でさらに客が増えたように感じられる。
 ハロウィーン最終日も校内は人で溢れ、セベクとシルバーは代わる代わるトラブル対応に追われていた。
「セベク、交代だ」
「ああ」
 迷子の子どもの扱いに困っていたところへ、休憩から戻ってきたシルバーが声をかけてきた。これ幸いとセベクは子どもをシルバーに預け、会場を離れる。
 校舎の奥まった道へ入ると、あたりは急に静けさを取り戻す。セベクは額の汗をハンカチで拭い、目元を強く揉んだ。
 話の通じない人間の相手は酷く疲れる。お祭り騒ぎに興奮して説明を聞こうとしない人間、泣き喚くばかりで何も答えない子ども、隙あらば装飾を壊そうとする厄介者――。
 自然とセベクはひとけのないところを求めて、何度も通ったところへ足を運んでいた。
 図書館は今年はサバナクローが使っていたが、その隣の資料室は関係者以外立ち入り禁止となっていた。学生だから関係者でいいだろう、と鍛錬とは異なる疲れで頭がうまく働かず、セベクは資料室の扉を開いた。
 相変わらず最低限の通路を確保するのみで、限界まで床は本で埋め尽くされていた。胸いっぱいに換気されていない空気を吸い込むと、古い紙や埃、カビの匂いに心が満たされていく。代替わりやハロウィーンの準備に忙殺され、進級してからというもの資料室には一度も訪れていなかった。S.Gの日記はすべて自室に持ち出したのでここに用はないが、わざわざ日記を持ち込んで読む程にこの場所を気に入っていた。日記は既に読み終えていたが、S.Gの文章が癖になり何度も読み返してしまう。
 棚板をなぞれば指先に埃がついた。
 顔をしかめて息を吹きかける。
 図書館を使うというのであれば、資料室の掃除もすればいいのに。ここには貴重な肖像画もあるのだから。サバナクローの厄介な寮長の顔を浮かべてため息をついた。
 あの肖像画は今は学内に飾られている。ハロウィーン期間だからと学園長が鼻を高くして見せびらかしているのだ。
 静閑なこの部屋で真紅の瞳に見られているような感覚を覚えながら、読書をするのは嫌いではなかった。
 セベクは額縁の痕がついた壁に目をやる。
 ハロウィーンが終わったら、また一人で肖像画を眺めたい、日記を読みたい。わずかにセンチメンタルな気持ちが込み上げてきたそのとき、壁が揺らいだ気がした。
 疲れているのだろうか。
 セベクは瞬きをする。
 突然、風もないのに部屋中の本のページがめくれる音が聞こえる。
 カーテンがひらめく。
 恐れか驚きか、セベクは指一本動かすことができない。
 窓は閉まっていたはずだと睨むように目視で確認するが、やはり閉まっていた。ゆっくりと目を戻すと、何もなかったはずの壁に肖像画が戻されていた。この一瞬でありえない状況にセベクは壁を凝視する。
 あの真っ赤な瞳、色彩のない衣装、確かに肖像画の――。
 動くはずのない目が確かにセベクを見る。
 動くはずのない口が息を吸い込む。
「我輩の名はスカリー・J・グレイブス。この良き出会いにキスを」
 肖像画の主はぞっとする笑みを浮かべ、恭しく一礼した。
 色のない肌に骸骨の眼窩を思わせる隈。欠けた歯にひび割れた唇。ツギと穴だらけの衣服。そして熱が籠もる鮮血のような瞳。
 背筋を震わせる余裕もなく、セベクは目を見開いて立ち尽くす。
 肖像画の主は音もなく近づいてきて、セベクの手を取る――ことはできなかった。ひんやりと体の芯を凍らせるような感覚とともに、彼の手はすり抜けた。
 彼の体の向こうに、ぽっかりと空間の空いた壁がうっすらと見えた。
 肖像画が壁に戻されたのではない、ゴーストの彼がここに現れたのだ。
「き、貴様は……」
 ようやく体のコントロールを取り戻したセベクは、全身の毛が逆立つ感覚をなだめながらゴーストがすり抜けた手をさする。
「あのハロウィーンの王か」
 震える声をごまかし、できるだけ胸を張る。
 ゴーストは恐ろしい風貌をしていたが、何も掴めなかった自身の手のひらを黙って見つめる姿に、迷子になった子どもが重なって見えた。
「ぼ、僕はセベク・ジグボルトだ。ハロウィーンの日に貴殿と相見えたこと、光栄に思う。僕の主であるマレウス・ドラコニアが学園を不在にしていることが非常に残念だが、僭越ながら若様の代わりに貴殿に挨拶しよう」
 マレウスの臣下として恥じぬよう、セベクは懸命に言葉を紡いだ。ここはナイトレイブンカレッジ、ゴーストなぞ珍しくもなんともない。少し、ほんの少し雰囲気に呑まれてしまっただけだ。
「ハロウィンの王だなんてあまりにも恐れ多い。我輩はただハロウィンを愛し、布教に努めたうちの一人でございます」
 セベクの言葉に、自身の手を見ていたハロウィーンの王はパッと顔を上げ、頬に両手をあてた。先ほどまでの見る者すべてを圧倒するような恐ろしさは霧散する。その豹変する様にセベクは目を瞬かせた。頬を色づかせ、目を伏せて恥じらう姿はまるで乙女だ。なぜだろうか、どこかで会ったことがあるような懐かしさを感じる。彼に対しての警戒心を解き、知らずのうちに入っていた肩の力を抜いた。
「ああ、セベクさんにも伝わってしまっているとは。このスカリー・J・グレイブス、なんと言えばよいのか。我輩の限りある言葉では胸の内をそのまま言い表せません」
 スカリーの照れながらも浮つく声に、セベクはちょうど一年前に初めて存在を知ったとは言い出せずにいた――まあ、ハロウィーン自体は幼い頃から知っていたのだから、訂正しなくても問題はないだろう。
「貴殿は我が校の卒業生であると伺っている。本日この地を訪れたのはハロウィーンを楽しむためか?」
「ええ、ええ」
 目を細めてにこやかにスカリーは頷いた。
「卒業生ですから、時折足を運びたいと思っておりました。昨年も実は来ておりまして」
「昨年も? ということは、我がディアソムニア寮の絢爛たる龍も見たということか」
「ええ、当然。あの赤いモンスターの堂々たる姿。庭に広がる灯り。ジャック・オ・ランタンとの見事な調和には見惚れるばかりでした。あれは確か東の国の文化でございましたね。我輩も訪れたことがございます」
「そうだろう、そうだろう! 我らがマレウス様がお作りになったのだから、ハロウィーンの王に認められるのは当然のこと。見る目があるな!」
 キラキラと瞳を輝かせたスカリーに昨年のディアソムニア寮の出し物を褒められ、セベクは鼻高々に自慢をする。
「貴殿は――」
「あの、よろしければ……」セベクの言葉を遮り、スカリーは言いにくそうな顔をして「貴様、と呼んでいただけないでしょうか」
「貴様?」
「そちらのほうが、ええと、馴染みがございまして」
 両手の指をぐねぐねと絡ませ、やけに恥ずかしそうにスカリーは言う。
 セベクに「貴様」と呼ばれて怒る人間は数多くいたが、「貴様」と呼ばれたい人間は見たことがなかった。
「貴殿だなんて、少し我輩には相応しくないような、距離を感じるような……寂しさがございます」
「距離も何も、今出会ったばかりだろう。それとも、以前に会ったことがあるのか?」
 今日初めて会ったはずなのにスカリーに懐かしさのようなものを感じるのが不思議で、セベクはさりげなく聞いてみた。自分が忘れているだけなのかもしれない。
「いいえ……貴方様とは今しがた出会ったばかりでございます」
 セベクの問いにスカリーは目を伏せた。その表情は悲しげに見えたが、彼はすぐに顔を上げる。
「それでも! ええと、であれば我輩の姿は在学当時と同じくらいでございますので、同輩として接していただけませんか」
「だが」
「久しぶり……そう、久しぶりに学園に戻ってまいりましたので、少し学生気分を味わいたいのでございます。どうか、ハロウィンを広めた過去の人間ではなく、ただのスカリー・J・グレイブスと呼んでくださいませ」
 眉尻を下げ、スカリーは切実な声音でセベクに詰め寄った。ゴーストでなければ手を握りしめられていたかもしれない。スカリーの顔が目と鼻の先まで迫ってきたところで、セベクは仰け反りながら狼狽えて承諾の意を示した。
「わかったから、顔を近づけるのをやめろ!」
「ああ、セベクさんはお声が大きい……」
 距離を取りたくて思わず叫ぶと、スカリーは目をまん丸に開いて驚いたあと、なぜか嬉しそうに微笑んだ。
 腐っても卒業してもナイトレイブンカレッジ生。偉人といえど一癖も二癖もあるのは間違いないようだ。

「そろそろ僕は自寮に戻るとする」
「もうお別れですか」
 学園の近況についてスカリーと話していると、スマホのアラームが鳴った。シフトに戻って寮や学園の見回りをしなくてはならない。
 そう言うとスカリーはみるみるうちにしょぼくれていく。まるで夕方のアサガオの花のようだと思う。
「貴様は学園を好きに見ていればいいだろう。僕には仕事がある」
「よろしければセベクさんについていってもよろしいでしょうか?」
「は?」
「もう少しセベクさんとお話をしたくて」
「話し相手をしている暇はない。それに貴様を連れていると周りがうるさくなるに決まっている。なんていったってハロウィーンの王だ。若様には及ばないが肖像画の人物だと知ったら皆がついてくるだろう」
「我輩にそんな注目が……」
「僕が一目見て貴様だとわかったのが証拠だ。諦めろ」
 にべもなく言うと、スカリーは腕を組んで何やら考え始めた。そして「我輩だとわからなければよいのですね!」と言い、どこからともなく丸いサングラスを取り出して掛けた。
「どうでしょう」
 真っ黒なサングラスのせいで目がまったく見えないが、口元だけでもいやというほど得意げに満面の笑みを浮かべているのがわかる。
「……目を隠しただけで変装できたと思い込んでいるのか?」
「なんていったって今はハロウィン。様々な仮装をされている方が多くいらっしゃいます。我輩が言うのも恐れ多いのですが、このスカリー・J・グレイブスに扮される方がいらっしゃるかもしれません。ねえ、そう見えませんか?」
 確かに、あの一番目立つ瞳が隠れてしまえばスカリー自身であることはごまかせるかもしれない。
「む……だが、貴様は透けているではないか。生身の人間でないことはすぐにバレる」
「ああ、それならば少し力を込めれば少し不透明にすることはできます」
 ふんっとスカリーが細腕に力を入れると、スカリー越しに壁が見えなくなった。足元は少し透けているままだが。
「これなら大丈夫でしょう」
 自信満々に笑うスカリーに、セベクはため息をついた。どうしても説得できないようだ。
「わかった。だが一人にでも貴様がスカリー・J・グレイブスであるとバレたら、すぐに僕から離れてもらうからな。いいな?」
「ありがとうございます! セベクさんとハロウィンをご一緒できるなんて光栄でございます!」
 スカリーは大げさに胸に両手を当て、華やいだ笑顔を見せた。
 セベクはその笑顔に一瞬目を奪われたが、慌てて我に返ってもう一度ため息をついた。

「セベク、その人は」
 休憩から戻ると、シルバーが隣にいるスカリーに目を向けた。
「ああ、これは……僕の仮装に感銘を受けてついてきた客だ」
「初めまして、素敵なお方。我輩はスカ――」
「シルバー! 僕はこれから校内を見回ってくる!」
 深々と頭を下げたスカリーが名乗ろうとするのを見て、セベクは慌てて大声で遮った。そしてその場を離れようとスカリーの手を掴もうとし、手がすり抜けてバランスを崩した。
 ゴーストに触れないことをうっかり忘れていた。スカリーがすり抜けたところから全身に冷たい何かが広がるのを感じる。
 セベクはシルバーに勘づかれないように躓いたふりをし、スカリーを連れて足早に立ち去った。
「いくら変装しても自ら名乗ったら意味がないだろう、ばかたれが!」
「申し訳ございません、つい癖で」
「次名乗ったら僕から離れてもらうからな」
「酷い……」
 しくしくと大げさに嘆いてみせるスカリーを無視して、セベクはひとけの少ないほうへと向かった。
「貴様のせいでろくにハロウィーンの仕事もできないではないか」
「それは申し訳ございません。大切なハロウィンのお邪魔をしてしまい、なんとお詫びをしたら……」
「はあ、もういい。貴様に付き合ってやる」
 思うように行動できないことに腹立たしく感じるが、なぜかスカリーを放っておけずセベクは自分に苛立ちを覚えた。
「ありがとうございます! ご迷惑をおかけした代わりに我輩のとびっきりで楽しませてさしあげましょう」
「何もするな! 貴様は何をしでかすかわからんからな」
「そうですか……」
 詫びに何かしたくてたまらない様子のスカリーに、好きにさせておいたらトラブルを引き起こしそうだと頭が痛む。何かさせておかないと。
 セベクは近くの空き教室に入り、鍵を閉めてスカリーに椅子を勧めた。スカリーは疲れないからと断り、それもそうかと一人で椅子に座る。サングラスを外し、ニコニコと機嫌のよいスカリーに見下ろされてなんだか落ち着かない。
 静かな教室でスカリーに見つめられるだけの時間は避けたく、何か話さねばと口を開いた。
「貴様が生きていた時代が気になっているんだが、差し支えなければ話してくれ」
「我輩の話でございますか。なるほど。ではセベクさんがご興味を持たれるかはわかりませんが、在学時代の話をいたしましょう」
 あれは我輩が一年生の頃……。
 スカリーは目を閉じ、吟遊詩人のように語り出した。

「その……なんだ、一年のときに運命の人に会ったと」
「ええ。落雷のごとく我輩の胸を貫く素敵なお方と巡り会ったのでございます」
 頬を赤く染めて思い出に浸るスカリーは、今にも踊り出しそうなほど浮かれて見えた。
 なんの話をしてくれるかと思いきや、初恋の人物と出会って過ごした日々のことをみっちり語り出した。それも二時間かけて。セベクはどちらかといえば当時の学園やツイステッドワンダーランドの様子を知りたかったので残念に思ったが、恋愛小説だと思って聞けば案外面白いということに気づいたので、これは朗読会だと言い聞かせて惚気話に耳を傾けていた。
「その人とは添い遂げられたのか?」
 スカリー自身のことはどうでもいいが、どうせならハッピーエンドであってくれと思いなんとなしに聞いた。
「いいえ。そのお方とは数日でお別れしました」
 ゆっくりと首を横に振るスカリーは不思議なことに笑っていた。その事実がハッピーエンドであるかのように、見惚れてしまうほどに美しい微笑みだった。身を焼き尽くす恋も過ぎてしまえばよい思い出になる、ということだろうか。
「数日間の恋でも一生記憶に残るものなのか」
「ええ、文字通り我輩の胸に落ちた雷なのでございます。感電の痕は一生消えないものでございましょう」
 そう言って微笑むスカリーはとても幸せそうだった。ここにはいない誰かを思い浮かべているのだろう、柔らかな雰囲気をまとい一人きりの世界に入り込んでいる。セベクは相槌も打てずスカリーを見つめることしかできなかった。
「すみません、思い出に浸ってしまいました。目の前にセベクさんがいらっしゃるというのに」
「あ、いや、気にするな」
 気づけば消えてしまいそうな儚さに、そういえばこの男はゴーストであったとセベクは思い出した。
「その相手とは再会していないのか? あの世でも会えていないのか?」
「再会……再会、ですか」
 セベクの問いにスカリーは考え込んでしまった。いささか不躾な質問だったかと反省するが、口に出してしまったものは消すことができない。なんて非礼を詫びるべきか頭を悩ます。
「再会と称してもよいのでしょうか、これは」
 過去の出来事を思い返しているはずなのに、スカリーの独り言のような問いはセベクに向いている気がした。
「再会したともしていないとも、これから再会する予定だとも言えます」
「なんだそれは」
「我輩としても早く再会したいのですが、それは不幸を願うことになりますので」
「不幸……」
 セベクは少し考え、ゴーストであるスカリーと再会するには相手が死ぬ必要があることに気づいた。ゴーストの姿では会えない人なのかもしれない。
「何十年でも何百年でもお待ちするつもりでございます。我輩が死とともに送ってきた日々に比べれば、コウモリのひとはばたきの間に過ぎゆく時間ですから。そのひとときを精一杯幸せに生きていただきたいのです。触れることができなくても、あの方のことを考えるだけで我輩は充分に幸せでございますから」
 健気というべきか、それにしては執着のような質量の大きな感情を抱え込んでいる気がする。数百年も生きていれば――いや、死を過ごしているとこうも欲を捨てられるものなのか。目の前にいるゴーストが理解しがたいもの恐ろしい何かに見えて、生者との違いを突きつけられた気がしてセベクは身震いした。
 二人で学園の変化について話しているうちに、教室や廊下に灯りがつき始めて日が暮れたことに気づいた。
「随分と長く話し込んでしまったな。ハロウィーンの展示は昨日までにあらかた見終わっていたからよいが、仕事をすべてシルバーに任せてしまった」
 話している間、シルバーからは「寮のことは俺に任せて客人にハロウィーンを満喫させることを優先しろ」というありがたいような悔しいような連絡が来ていた。自分がいなくても問題がないと言外に言われているようで腹が立つ。だが、昼から日没まで緊急の連絡が来ていないということは実際にセベクがいなくてもうまく回せたということだ。自分一人いなくなっただけで問題が大量発生しても困るが、非常に複雑な思いである。
 シルバーの寮長としての技量に感謝すべきか、自分の存在感のなさに落ち込むべきかセベクは選びきれないでいた。
「セベクさんの存在感がないと言う方はそういらっしゃらないと思いますが……」
 唸っているとスカリーがぽつりと言った。どうやら思考が口からこぼれていたらしい。セベクは小恥ずかしさから顔を熱くした。
「セベクさんのお声は雷鳴の如く響き渡り聞く者の胸を貫いておりますし、真っすぐで揺らがない信念は相対する者の世界を切り開いておりますし、」
「待て、待て」
 つらつらと指折り数えて述べるスカリーをセベクは両手で制した。
「実際に起きたように話すが、貴様は僕の何を知っているというのだ」
「あ……今日お話して、きっとそうに違いないと想像を膨らませただけでございます」
 そう弁解するスカリーの顔は薄暗い外の闇と教室の照明が反射し、複雑な陰影ができていた。何も聞いてはいけないような気がして、セベクはそれ以上問いたださなかった。
「楽しかったハロウィンもあと数時間で終わってしまいますね」
「ああ、ほとんど貴様と話して終わったがな。ハロウィーンが終わったら、ほかのゴーストたちと同様に消えてしまうのか?」
「ええ」
「そうか」
 寂しくなるな。
 そう言いかけてセベクは黙った。約半日話しただけでスカリーが心に住み着くわけがない。ハロウィーンの王という偉人と話すことができた喜びも、その縁がここで切れてしまう寂しさも、そのうち日常の煩雑さにかき消えてしまうだろう。
「我輩はあの世に帰ってもセベクさんのことは忘れず、来年のハロウィンを楽しみに過ごすことといたします」
「来年も来るのか?」
「ええ、当然」
 何を聞くのかとスカリーは不思議そうに首を傾げた。
「時折来ていたという話だから、しばらく来ないものだと思っていた」
「まさか。確かに以前までは数十年に一度しか訪れておりませんでしたが、せっかくセベクさんとお会いできたのです。来年も必ず行くに決まっています」
 何が何やらセベクにはわからなかったが、どうやら一風変わったハロウィーンのゴーストにえらく気に入られてしまったようだ。悪い気分ではない。
「来年も来るということであれば、一つ頼み事をしてもよいだろうか」
 ふと思いついてセベクは口を開いた。
「セベクさんのお願い事ですか? このスカリー・J・グレイブス、命に代えても叶えてみせましょう」
「貴様はもう死んでいるだろう」セベクは咳払いをして「S.Gというイニシャルを知っているか?」
「S.G……それは人のイニシャルでしょうか?」
「おそらくそうだ」
「それでしたら――」
「この人物が遺した楽譜と日記を見つけたんだ」
「えっ」
「ん?」
 素っ頓狂なスカリーの声にセベクは聞き返すが、スカリーはなんでもないと続きを促した。
「未完成のオペラがとても良い曲だと感じたんだ。だから、この曲が完成したのかを聞きたい。できれば一曲最後まで聴いてみたい。日記を読んでこの人物のことをもっと知りたいとも思った。このS.Gがヒト属か獣人属か、まあ妖精族でない限りこの世にはもういないはずだ。だからあの世で貴様にS.Gを探してほしい。可能であれば来年のハロウィーンに連れてきてほしい。頼めるだろうか」
 それが人に頼む態度かとハーツラビュルやサバナクローの連中に散々言われた経験を活かし、努めて下手に出てスカリーの様子を窺う。
 スカリーは顔色を赤青白に目まぐるしく変化させながら、あーだのうーだの頭を抱えて変な声で唸っていた。
「難しいなら断ってもいいぞ」
「まさか! 我輩がセベクさんの貴重なお願いを断るなど! ええ、ええ、必ず探し出してみせましょう。ハロウィンキングの名に賭けましても」
 額を汗をハンカチで拭いながらスカリーは引きつった笑顔で胸を張った。
「いや、無理はしなくていいが……探してくれるというのならありがたく思う」
「無理だなんてとんでもございません。必ず、必ず」
 最終手段として自分が死んだあとにあの世で探せば済むと思っていたが、スカリーが必死に探し出してみせると言うから任せることにした。
「よろしければ、その曲のどのようなところをお気に召したか伺っても? あ、いや、もしS.Gなる人物にお会いできたらセベクさんのご感想をお伝えしたいと思っただけでございます」
「旋律と歌だ。率直に言えば僕の好みではないが、耳からずっと離れない。リリア様に歌っていただいたのだが、悲しいのにきれいだった。いや、悲しいからきれいなのかもしれないが。一目惚れした相手に一途でいるという物語も気に入った。思わず幸せを願ってしまうくらいだ。未完だから余計に結末が気になっているのかもしれないが」
 話しながら、主人公の一途なところはスカリーに似ているとなんとなく思った。また恐縮しながら大げさなほどに喜びそうなのが想像できるから、口には出さないが。
 それにしても、何百年も忘れられない相手がいることも、何百年も想われ続けている相手にも羨望を感じてしまう。セベクは恋というものを小説の中でしか知らなかったが、スカリーのように一生どころか死んでも心に残り続ける経験をしてみたくなってきた。誰かに一生分の愛を注ぎ、誰かから一生分の愛を注がれるというのはどういうことなのだろうか。
「もう一般客が帰り始めたな」
 話しているうちに校内の喧騒が少しずつ遠ざかり、校門へと人混みが移動する気配を感じる。
「我輩はハロウィンが終わるまでここにいられますが、セベクさんは生徒のみなさんと合流されたほうがよいでしょう」
「そうだな。さすがに副寮長たる者が最後まで不在にしているわけにはいかないからな。僕は寮に戻るとしよう」
 セベクは立ち上がり、姿勢を正してスカリーに左手を差し出した。
「ハロウィーンの王よ、貴様と話せたことを光栄に思う。来年また会えることを楽しみにしている。貴様をとびきりのハロウィーンで出迎えてやろう」
「こちらこそ、一年に一度の大切な日を素敵な貴方様と過ごすことができてとても幸せでございました。来年も楽しみにしております」
 スカリーの左手がセベクの左手を貫通する。ぞわりと左手から冷え込む感覚がセベクを襲う。
「失礼いたしました。ゴーストに触れられるのはあまり気持ちのよいものではございませんでしたね」
「いや僕も貴様に触れられないことを忘れていたからな。最後に挨拶をと思ったんだが」
 気恥ずかしくなり、セベクは左手を引っ込めようとした。が、それより早くスカリーが動いた。
「では、我輩からご挨拶をいたしましょう」
 そう言うやいなや、スカリーはかがんで中途半端に出されたままのセベクの左手を両手で包み込むふりをして、手の甲に唇をつけた。小さなリップ音が静かな教室に響いた。
 スカリーの唇が手の甲に触れた瞬間、再度セベクの全身は冷気に襲われる。
 今度こそ手を引っ込め、鳥肌の立つ腕をさすりながら抗議した。
「な、な、な、何を」
「ご挨拶でございますが」
「手の甲への挨拶は許可を取らねばマナー違反だ!」
「これは大変な失礼を。申し訳ございません」
 怒りと驚きで頬が熱くなる。そんなセベクを見るスカリーは抗議を聞き流しているのか、癇癪を起こす幼児を微笑ましく見ているような笑みを浮かべていた。その様子にセベクは更に腹を立てるが、どうにも相手にされていない気がする。
「……もういい。僕は失礼する!」
 セベクは鼻息荒く教室の扉を勢いよく開けた。



 三
 
 S.Gの新情報を得られないままセベクは三年生の秋を迎えた。

 セベクは人に見られていないことを確認して、図書館の資料室に入る。部屋の奥にある戸棚を開けると中には豪奢な装丁の本が一冊だけ置かれている。その本の表紙の上に、自室から持ってきた手紙を置いて目を瞑り、スカリーのことを思い浮かべる。目を開くとそこにあった手紙は消え、本のみが残されていた。そして一時間ほど資料室の本を読んで時間を潰してからもう一度戸棚の中を見に行くと、表紙の上に古びた手紙が一通乗っていた。封筒に書かれているセベクの名前は、どこかで見たことのある癖字で丁寧に綴られている。
 これは昨年のハロウィーンにスカリーから教えてもらったゴーストとの連絡方法だ。S.Gの件ですぐ連絡が取れるようにしておきたいと、スカリーが別れ際に文通を持ちかけてきたのだ。丸い鏡が表紙に取り付けられた本は別の世界と繋げることができるらしく、この本を通じて手紙のやり取りができると言っていた。直に触ると魂ごと持っていかれるので決して本には触らないようにと何度も言い含められた。また、この世とあの世で時間の流れがずれており、セベクが手紙を送ったら一時間ほどでその返事が届くとのことだった。あの世では一週間以上時間が過ぎているらしい。
 一年生の頃にこの資料室を訪れた際にはどの戸棚も本でいっぱいになっており、加えてこのような世界に類のない装丁の本は見かけたことがなかった。いつからこの本は存在していたのだろうか。
 不思議に思いつつも、セベクは手紙を送って手紙を受け取る。これが日曜の午後の新しい習慣となった。
 
 手紙のやり取りは二年生のハロウィーンの翌週から毎週続けられていたが、S.G調査についてはまったく進展がなかった。死者が多すぎて調べるのに苦労しているのだとスカリーは手紙に書いていた。
 あの世の人口は増える一方で減ることはないのだから、それもそうかとセベクは長期戦になることを覚悟した。そしていつしかS.G以外の話題も手紙に書くようになっていた。
 試験のこと、VDCのこと、ロイヤルソードアカデミーとの大会のこと、マレウスの近況、次のディアソムニア寮長に選ばれたこと――。
 スカリーからは今週のS.G探しの進捗のほか、出会ったゴーストと話した内容、ジャック・スケリントンのこと、生前の思い出、ジャック・スケリントンのこと、昔の知識、ジャック・スケリントンのことについて送られてくることが多かった。
 ジャック・スケリントンとハロウィン・タウンについてはS.Gの日記に記載されていたこともあり、彼についての知識が無駄に増えていく。骨でできた男、人造人間の女、幽霊犬などこのツイステッドワンダーランドにいるはずがないと思っていたが、その存在を断言する人物が二人もいるなら信憑性が増してくる。もしかしたらセベクが訪れたことのないこの世界のどこかにいるのかもしれない。
 未知なる分野について触れることが楽しくて、セベクは手紙の中でスカリーを質問攻めにした。それはハロウィン・タウンのことであったり、学園の古い噂話であったり、現在偉人として語り継がれている人物の知られざる物語であったり、なんでも知りたかった。
 そして、話していくうちにスカリーが生前どのように生きていたのか興味が湧いてきて、スカリー自身への質問も増えていった。出身地はどこか、在学中の部活は何か、好きな教科は何か、苦手な食べ物は何か、どうしてそんなにハロウィーンが好きなのか、どうして歯が抜けているのか、その服は寮服なのか卒業してからの一張羅なのか、どうしてゴーストになってもサングラスを持っているのか――。
 スカリーは自身のことを根掘り葉掘り聞かれることを決して疎まず、喜んで質問に答えてくれた。
 知れば知るほどスカリーは過去の偉人ではなく、今セベクと共に時を刻んでいる一人の身近な存在に思えてきた。読書が共通の趣味だと知ってからは、時代問わずあらゆる本の話を交わした。互いの好きな本を紹介し合ったり、時にあの世で著者に会って聞いた話で盛り上がったり、便箋を何枚費やしても話題は尽きなかった。
 だが、スカリーが死してなお想い続けている人については手紙越しでも聞くことができなかった。彼の心の柔らかな部分を踏み荒らすことになるという躊躇ではなく、ただ聞きたくなかっただけだ。何百年も心に突き刺さったまま忘れられない人がどんな人物であるのか知りたいのに、幸せそうに語るスカリーの表情を思い出しては便箋を破り捨てた。
 いつしかセベクはS.Gの調査進捗が進まないことを願うようになっていた。S.Gが誰なのかわかってハロウィーンの日に会ってしまえば、スカリーと会う理由も手紙をやり取りする理由もなくなってしまう。資料室に入れる今だけの関係だとしても、終わらせたくないと思ってしまった。毎週届く手紙で調査が難航している旨を確かめる度に胸を撫で下ろし、今週のスカリーは何をしていたのか読むのが楽しみになっていた。届いた手紙は自室に引き出しに保管し、最初の一通目から最新まで順番に読み返すのが読書に替わって毎晩の日課となった。
 
 スカリーと文通をしている間にも次のハロウィーンは迫り、今年はどのようなテーマで展示しようか頭を悩ませる時期となった。
 セベクは長いこと一人で考えていたが、アイデアがまったく思い浮かばず焦っていた。もうすぐ実行委員会が設置され、本格的な準備が始まる。ほかの寮に出遅れるわけにはいかない。スカリーに助けを求めればハロウィーンの王の名に恥じぬ素晴らしいアイデアを授けてくれるに違いないが、寮の展示を見て驚く様子を見たいという欲がセベクにあった。手紙の中で今年のハロウィーンを楽しみにしていると言っていたスカリーに褒められたい。こんなハロウィーンは初めてだと言われたい。驚き、恐怖し、感嘆し、称賛するスカリーを見たくて堪らない。
 スカリーを頼らずにもう一人のハロウィーンに執着する男、S.Gからヒントを得ようと、ある晩セベクは日記を開いた。
 いや、開こうとした。
 開こうとして、本を掴めない。
 驚いて本と自身の手を交互に見る。
 自分の左手の指先が半透明になっていた。震える右手で左手の指先を触る。右手は空を掴み、スカリーに触れてしまったときのような寒気が右手から全身へと広がった。
 頭がくらくらする。
 心臓が恐怖で縮み上がった。
 一体いつから、なぜ、解決策は。
 早鐘のように鳴り響く心臓を抱え、自室にある教科書と魔導書を手当たり次第に右手で開く。
 肉体を透明にする魔法、対象の性質を変える魔法――学生が学べる魔法にはそれらしいものはなかった。
 眠れば、朝になれば戻っているかもしれない。
 楽観的な希望に縋り、セベクは毛布を頭から被った。心臓の音が毛布の中で反響してうるさくて眠れない。自分の浅く吐いた息で温度が上がり、酸素は薄くなり苦しい。
 それでも毛布の外に出れば恐ろしい現実が襲ってきそうで動くことができなかった。
 結局朝のアラームが鳴るまでろくに眠れず、朝の光に左手をかざすとうっすらと向こうが透けて見えた。戻るどころか、昨日より透明な範囲が広がっている気がする。
 図書館か、それとも保健室か、教師か、どこに行けば答えが見つかるのだ。
 授業どころではなく、もたもたと制服に着替えてセベクは購買部へと走った。
 
「ハーイ、小鬼ちゃん! 何を……ニッヒッヒ。君の悩みはお見通しさ。このサムにお任せを」
 購買部に入るとサムの陽気な声がいつも通り出迎えてくれたが、セベクを捉えるとサムの目が眇められた。一瞬険しい顔になったがすぐ笑顔を取り戻し、セベクに声をかけて裏に引っ込んだ。
 サムの店で揃わないものはない。ツイステッドワンダーランド中の物がすべてここにあると言っても過言ではない。そして欲しい物の名前がわからなくても用途を説明すればすぐに用意してくれる。ということは、現状を打破するための知識は人一倍持っているに違いない。そう判断して購買部に足を踏み入れたわけだが、どうやらそれは合っていたようだ。
 店内に戻ってきたサムの手には、小瓶が握られていた。
「真っ先にこのサムのところへ来たのは大正解だ。口うるさい教師に相談したら大事になってしまうからね」
 サムはウィンクして小瓶を揺らした。どろりとした液体が入っているのが見えた。
「小鬼ちゃん、どうやら君の魂は死に近づいているようだね」
 サムの口元は弧を描いていたが、目はまったく笑っていなかった。
「長期間死と接触すると、魂があちらに引きずられていくんだ。ああ、当然亡くなった人を保存して一緒に暮らしていても問題はないさ。問題となるのはゴーストだ。学園にいるようなこちら側で生活している存在ではなく、ハロウィーンが終わったら帰る者たち、あの世を住処とするゴーストだ。良くも悪くもゴーストというのは仲間を作りたがる本能がある。その意志があろうとなかろうと、あの世にアクセスすればするほど小鬼ちゃんの魂は現世を離れていく」
「現世を離れたらどうなる」
 セベクは震える声でサムに尋ねる。予想はついていたが間違っていることを祈った。
「当然この世からグッバイ、晴れてゴーストの仲間入りさ」
 残念ながら予想通りだった。
「さて、小鬼ちゃん、原因に心当たりは?」
 どう考えてもスカリーのことに違いない。手紙のやり取りが原因で手が透き通ってしまっているのだろう。
 黙り込むセベクにサムは片眉を吊り上げた。
「どうやら心当たりはあるようだね。ゴーストがこの世とあの世の境を越えられるのはハロウィーンのときだけだ。ハロウィーンの時期は境が曖昧になるからね。今はその境が小鬼ちゃんの中でも常時曖昧になっているんだ。本来あってはならないことさ。いいかい、この魔法薬を飲むとあの世との繋がりは切れる。ただし、飲むチャンスは今このとき一回きり。左手だけで済んでいるうちに飲まないと、これ以上向こうに引きずられたら効かないかもしれない。そして、一回飲んだら二回目は効かない。繋がりが一旦切れるとはいえ、効果は永久ではない。次に魂が引きずられたらそのときが小鬼ちゃんの最後だ。時期が味方すれば助かるかもしれないが。さあ、どうする?」
 ニッヒッヒと悪どい笑みをサムは見せた。
「この魔法薬は魂に直接効く超強力な薬だ。飲むなら念のために俺の前で飲んでもらうよ」
 突然突きつけられた二択にセベクは生唾を飲み込んだ。
 考える時間はなく、今すぐ選択しなければならない。薬を飲むことを選べばスカリーとの文通はできなくなる。スカリーとの繋がりを選べばゴーストとなり、この世界で生きられなくなる。
 長考はしなかった。だがセベクは瞼を閉じて、選んだ答えを心のなかで何度も呟いた。
 そしてサムを見据えて口を開く。
「僕は……茨の谷に戻り、マレウス様に生涯お仕えするのだ」
 セベクは右手のひらを上に向けて差し出した。
「OK、将来有望な小鬼ちゃんはそっちがいい。緊急だから料金は後払いにしてあげよう。さ、一気に飲んで」
 サムに手渡された小瓶を眺める。
「……これを飲んだらもう会えなくなるのか」
「それは小鬼ちゃんと相手のゴースト次第さ。この薬は境界を引き直すだけ。迷っているのかい?」
「いや、迷いはない。ただ、奴との繋がりが切れるのは残念に思う」
 S.Gの遺したオペラを突然思い出した。恋した人に再会できず探し続けるという物語。このままスカリーとの縁が切れてしまえば自分もそうなるのだろうか。魂が抜けたようにこの世を彷徨い、さながら亡霊のように生きるのだろうか。
「なるほど、小鬼ちゃんは心を奪われてしまっているんだね」
「心?」
 小瓶を手にしたまま考え込んでいると、サムがそう言ってきた。
「まるで恋人と永遠に別れるような顔つきだ」
「こ、恋人だと? 僕たちはまだ……」
「まだ付き合っていない?」
 付き合うどころか好き合う関係にもなっていない!
 そう反論しようとして、セベクは口をつぐんだ。
 スカリーのことを好きなのかもしれない。
 いや、本当に好きなのか? 好きとは一体なんなんだ? 一年前に顔を見たきりでそれ以来会ってもいない相手を好きになるとでも?
「僕たちは、僕は……」
 これが恋だというのか? スカリーはあんなに幸せそうな顔をしていたのに、今は胸がこんなにも苦しい。本当にスカリーと同じ恋をしているのか? 何百年も想い続けている人がいる男に恋をしているのか?
 こんな気持ちは恋でもなんでもないはずだ。ただスカリーによって毎日が充実していて、スカリーのことを考えるだけで胸に温かいものが広がって、スカリーの好きな人のことを考えると気分が悪くなって、スカリーが手紙を書いている時間だけは自分のことを考えているはずという想像で自分を慰めているだけで。
「さ、小鬼ちゃんは恋より未来を選ぶことだ」
 にんまりと笑うサムに何も言えず、促されるままに呷った。
 どろりとした粘度の高い液体がゆっくりと喉を通っていく。ブラックコーヒーとは比べ物にならないほどの苦みに吐き出しそうになったが、口を押さえて無理に飲み込む。
「小鬼ちゃんには大人の味だったかな」
 すべて飲み干したあと、サムがにんまりと笑って水のペットボトルを投げてよこしてきた。
「ぐっ……この程度、飲み慣れているぞ……」
 吐き気を堪えてなんとか声を絞り出し、受け取った水で薬の味を流し込んだ。
「それじゃ、薬代とミネラルウォーター代合わせて……」
 サムに告げられた金額に喉元から苦いものが込み上げてきたが、セベクは我慢して財布を取り出した。
 
 代金を払ってしばらくのち、左手が透けなくなった。はいこれで終わり、とサムに購買部を追い出されてセベクは呆然と左手を見つめていた。
 本当にスカリーとの繋がりは消えてしまったのか。
 手が戻った安心感のあと、じんわりと不安が這い上がってきた。
 確かめなくては。
 セベクは購買部を出た足で資料室に駆け込んだ。将来のことを考えたらここに来ることも避けたほうがよいのだろう。だが、セベクはすぐにスカリーとの繋がりを断ち切りたくなかった。
 スカリーと繋がっていた本をしまっていた戸棚を開ける。そこには大量の本がぎっしりと詰め込まれていた。本を一冊一冊確認するが、あの豪奢な装丁の本はなかった。
「これでよかったんだ、これで」
 壁に飾られた、真紅の瞳を爛々と光らせたスカリーの肖像画に向かって呟いた。
 
 項垂れて自室に戻ると、机の上に置いていたスカリーの手紙が目に入った。約一年、交換し続けてきた数え切れないほどの手紙の束だ。一日の終わりに読み返すのが幸せな時間だった。
 ――そうだ、新しく手紙を出すことができなくても、今までに届いていた手紙を読むことはできる。
 希望を見つけ、セベクはほのかな喜びを抱いて手紙を手に取ったがすぐ異変に気づいた。
 封筒にスカリーの癖字で書かれていた宛名が消えている。
 すっと喜びが引いて頭の中が真っ白になる。
 嫌な予感がする。
 慌てて封筒を開けると、何枚も入っていた便箋はすべて白紙になっていた。どの手紙も文字一つ残らず、まるで初めから何も書かれていなかったかのようにきれいだった。
 セベクは力なく床に膝をついた。
「スカリー・J・グレイブス」
 己の唇を震わせるその名前だけが、自身と彼を繋ぐ最後の糸のように感じた。
 本当にこの選択で合っていたのか?
 いや、一時の情に惑わされて未来を手放すなど合っているはずがない。
 本当にこれ以外の選択はなかったのか?
 最初に購買部に寄ったのが間違いだったのでは?
 魔法や呪いに詳しい教師の意見を聞いてから購買部で必要な薬を手に入れるべきだったのでは?
「こんな結末、ハッピーエンドではないだろう……」
 涙を堪え、セベクは拳を床に叩きつけた。
 どこかで未完成のオペラの旋律が聞こえた気がした。
 
 寮長たるもの、いつでも寮生の見本となるために姿勢を正して過ごさなくてはならない。
 その矜恃がセベクに日常生活を送らせていた。
 いつも通りに授業に出席し、いつも通り部活を終え、いつも通り予習復習をして、いつも通り読書をして、いつも通り就寝する。
 その中でたまに資料室に忍び込んではスカリーの肖像画を眺める時間があった。
 物言わぬスカリーはセベクを見下ろすだけで何も言わなかったが、その視線に責められているような気がした。記憶の中のスカリーはいつでも温かい目をしていたというのに、この肖像画の瞳は酷く冷たかった。だが、どれだけ胸が痛くなろうとスカリーを感じるにはここに来るしかなかった。
「もしかしたら貴様に送った手紙もすべて消えてしまったかもしれないな」
 そっと肖像画に手を伸ばして呟いた。古い油絵の具の香りが鼻を突いた。
 スカリーがあの世でどう過ごしているのか想像もつかず、セベクは長い時間肖像画の前で途方に暮れていた。
 突然手紙が来なくなったことに対してどう考えているのか、怒っているだろうか、心配しているだろうか、それともなんとも思わず忘れてしまっているだろうか。
 出口の見えないトンネルで前も後ろもわからないまま立ち尽くしている気分だった。
 ふらりと重たい頭を抱えて自室へ戻る。
 ずっと開いていなかったS.Gの日記が机の上に放置されているのを見て、そういえばハロウィーンの展示のヒントを得ようとしていたことを思い出した。もう取りかからないと間に合わない。
 眠る気にもなれず、久しぶりに分厚い日記を開いた。

 ○月△日
 己の悩みは己の意思と行動で解決できる
 誰かを信じるというのは、どんなことがあっても受け入れるという覚悟のことをいう
 
 名もわからない誰かの教えだ。
 誰の言葉だろうか。
 我輩の道を照らす月明かりのよう。
 忘れてしまった貴方を我輩は信じたい。
 貴方がどのような人であっても、大切に思い続けましょう。

 
 セベクの考えとよく似ている名言を残した人物がいるらしい。心中で称賛して、ふと今の自分がそれを忘れてしまっていたことに気がついた。
 今の悩みはなんだ?
 消えてしまったスカリーの手紙、想像もできないスカリーの気持ち、ハロウィーンの準備。
 手紙は解決策が思い浮かばない。サムや教師に相談することを検討する。
 スカリーの気持ちはハロウィーンの日に直接聞く。人の気持ちなど勝手に想像したところで推し量れるものではない。本人のみが答えを持っている。今はハロウィーンを楽しみにしているという言葉を信じるだけだ。
 ハロウィーンの準備。最優先事項はこれだ。自分だけの問題ではない。ディアソムニア寮を預かっているのだ。寮長が立ち止まってどうする。スカリーをあっと言わせたいのだろう。それなのにスカリーのことで頭をいっぱいにしてどうする。賑やかで派手で豪勢なハロウィーンでスカリーを出迎え、ディアソムニアの威光を知らしめなくてはならない。
 セベクは急に視界が開けた気がして日記を閉じた。
「S.Gよ、貴様に感謝しよう。名も伝わらない誰かの教えを伝えてくれたことに」
 S.Gの日記は久しぶりに開くのに、なぜかずっと読んでいたような気がした。
 引き出しからまっさらなレポート用紙を取り出し、思いついたままにハロウィーンの企画書を書き上げていく。
 インクを滲ませ、誤字を塗りつぶし、とにかく勢いで書き進める。
 めちゃくちゃな人体図も修正せず、思い浮かんだ衣装デザインを書き殴る。
 朝が来たことにも気づかないほどセベクは無我夢中になっていた。



「ハッピーハロウィーン!」
 歓声と同時にハロウィーンウィークは始まった。例年通り今年も大盛況である。
 セベクは植物園を飾るディアソムニア寮の展示に感嘆の声を上げる一般客を満足げに眺め、ハットを被り直した。
 今年の展示は植物園の外見こそモノクロで地味で不気味だが、ひとたび中に入れば鮮やかな色彩が視界に広がる。そして様々ないでたちのモンスターたちに扮した寮生が、客人を恐怖と笑いが共存するパーティへ誘うというものだ。植物園からはモンスターに驚く悲鳴とハロウィーンを楽しむ笑い声が同時に聞こえる。
 セベクが着想を得たS.Gの日記には、元祖ハロウィーンと解釈することのできる記述があった。それは現在広まっているハロウィーンの概念とは相反する思想だった。だが、それぞれの長所を組み合わせたら最も恐ろしく最も楽しい展示になるのではないだろうか。
 思いついてからは早かった。S.Gとスカリーが心酔しているジャック・スケリントンのイメージを文章から膨らませ、衣装や会場の装飾を決めた。寮生が扮するモンスターたちは、スカリーが語ってくれたハロウィン・タウンの住民たちをモチーフにしている。
「こんな展示は初めてだ」
「外から見たら陰気で怖かったのに、中はお祭りみたいだった」
「ハロウィーンにしては地味じゃんって思ったのにね」
 中から出てくる他寮生や一般客の感想に、セベクは自分の発想が間違っていなかったと確信して副寮長にあとのことを任せてその場を離れた。
 期待を抱いて資料室に足を運んだが、待てどもスカリーは現れなかった。
 スカリーの肖像画は今年も校内に運ばれて、物の多い資料室はがらんとして見えた。
 ハロウィーンが始まったというのに、どうしてスカリーは来ないのだろうか。あの薬の効果でスカリーの姿が見えないだけかもしれないと思ったが、あの世との繋がりが消えてスカリーを認識できなくなるのであれば、ほかのゴーストたちも見えなくなるはず。
 セベクは部屋中が燃えるような夕暮れの光に包み込まれるまで、何も飾られていない壁を眺めてスカリーを待った。
 ハロウィーン期間中は人が出入りする予定がないため、日が落ちてもこの部屋に照明はつかない。気づけば自分の手も見えないほどにあたりは真っ暗になっていた。
 セベクはため息をついて資料室を出た。

 スカリーを待ちたいからといってシフトの回数を減らしはしなかった。私情は決して挟まない。各人一日はシフトを入れない日があり、セベクはそれが初日だった。二日目からは寮生と共に客人を接待し、校内を回って一般客を楽しませる仕事に励んだ。
「お兄ちゃん、かっこいい格好だね。骸骨のモンスターみたい」
 校内を歩いていた少年が、セベクを頭のてっぺんから爪先までじっと眺め、両手のひらを上にして差し出してきた。
「トリックオアトリート!」
「フン、見る目があるな。菓子をやろう」
 セベクはしゃがんでポケットに入れていたキャンディとクッキーを少年の手に置いた。
「ありがと! ハッピーハロウィーン!」
 少年は前歯の抜けた笑顔を見せ、スキップしながら去っていった。
「ああ、ハッピーハロウィーン」
 歯抜けの笑顔にスカリーを思い出し、セベクは小さく呟いた。
 シフトの合間を縫って、資料室のほかゴーストのたまり場等を覗くが、スカリーは一向に現れなかった
 十月三十日も、セベクは夕方から資料室でスカリーを待っていた。
 明日でハロウィーンは終わるが、むしろ本番はこれからといっても過言ではない。初めてスカリーと出会ったのも十月三十一日だった。
 あと一日。
 文通が途切れると同時に縁も切れ、もう会いたくないと思われているのではという考えが一瞬浮かぶ。が、セベクはすぐに首を横に振ってその小さな不安を振り払う。
 スカリーを信じると決めた。
 スカリーは必ず来る。
 夕闇が濃くなるごとにセベクは自分に言い聞かせた。
 日が落ちて肌寒くなってきた。
 窓から星の瞬きが見える。
 信じると決めたのは早すぎたか? いや、スカリーのことを信じると決めた自分自身を信じている。この結果に落胆してしまうのは、スカリーのことを知らないのに勝手に期待してしまったからだ。裏切られたわけではない。信じることと期待が叶えられることは違う。
 ハロウィーンを過ぎたらゴーストたちは帰ってしまう。あと一日猶予があるとわかっていても、ほんのわずかに芽生えた不安が自己主張してくる。
 あと一日ある。
 そう言い聞かせてセベクは今日も一人、資料室を後にした。 
 一般客が帰り、疲れた体を休めるために早めに就寝している生徒が多いせいか、まだ早い時間なのに校内の廊下は静まり返っていた。いつもであれば部活帰りの生徒や夜遊びをしている生徒で賑わっている時間だ。
 このまま寮に戻ってもよかったが、三十一日を完璧な形で迎えるために遠回りして展示を最終確認することにした。
 校舎を出て植物園に向かって歩いていると、巨大な枯れ木や不気味なシルエットが暗闇の中に突如現れた。植物園の周囲を飾るオブジェだ。これらを思いついた当の本人であっても一瞬ギョッとするほどに素晴らしい恐ろしさである。昼間でも相応の不気味さを演出しているだろう。
 一歩一歩植物園へ近づく。
 眠りについた校内は自分の鼓動の音すら聞こえそうなほどに静かで、世界に一人取り残されたような錯覚に陥った。枯れ木やオブジェが手招きしているように見えて恐怖に足がすくむ。
「僕がこれを作ったんだろうが」
 セベクは頬を叩いて気合いを入れ直す。
 植物園の入り口には真っ黒に塗りつぶしたポーチが設置されている。ポーチといってもきちんと骨組みから作られたものではなく、寮生らの壊れた傘を組み合わせて屋根の形に固定しただけの簡素なものだ。そこに暗幕をぶら下げると外から入り口が完全に見えなくなる。セベクはそっと幕の中に体を滑り込ませた。幕が閉まるとまるで世界の境界を越えたかのように感じる。幕の内側は真夜中のような暗闇で小さなカボチャの中に入れられたろうそくだけが唯一の灯火だ。今にも消えそうな頼りない灯りが揺れ、ジャック・オ・ランタンの影が不規則に動く。心臓に冷たい手が忍び寄るような恐怖を覚え、セベクは咳払いをしてごまかした。
 幕の奥、植物園の本来の入り口手前には固くなった古いパンと具のない質素なスープが置かれていた。これは一般客が誤って食べないように障壁を張っている。ハロウィーンでよく見かける楽しげな菓子とは真逆の粗末で異様な食事に、この先に待ち受けるものへの恐怖を煽られて肩に力が入る。
 緊張感を持ったまま植物園の入り口を開ける。
 突然視界が明るくなり、一瞬周りが何も見えなくなる。続いてほんの少しだけ不気味で賑やかな音楽が耳に飛び込んできた。そして目が慣れるとそこには別世界が広がっていた。橙、緑、紫のカラフルで派手な装飾、所狭しと飾られた大きなジャック・オ・ランタンに、室内の所々に置かれた本物の菓子とテーブルに並べられた豪勢な料理。植物園はハロウィーンパーティの会場へと様変わりしていた。
 セベクは体から力を抜き、表情を緩めて会場内の装飾を見ていく。菓子はカボチャを模した入れ物の中に充分に入っていた。テーブルに並べられた料理は今は単なる映像だった。真夜中に侵入してくるかもしれないゴーストへのちょっとしたイタズラである。
 ぐるりと一周して、何も問題がないことを確認した。時計を見ると、ちょうど日付が変わったばかりだった。寮長はそれほど注意されないとはいえ、深夜に校内をうろつく行為は褒められたものではない。
「時間をかけすぎたな」
 独り言ちてセベクは植物園を出ようと扉を開いた。
 暗幕が風に吹かれて揺らめいていた。
 ちらり、と幕の向こうに赤い何かが見えた気がした。
 セベクは硬直して目を見張った。
 勘違いかもしれない、そう期待しすぎないように言い聞かせながらゆっくりと瞬きをする。
 強い風の音と共に、幕が大きくめくれ上がった。
「こんばんは、素敵なお方。この良き出会いにキスを」
 風が収まると、最初からそこにいたかのようにスカリーが暗闇の中に立っていた。
「ス、スカリー……」
「お久しゅうございます、セベクさん」
 冷たい鮮血のような瞳がセベクを貫いた。
「ああ、お懐かしいお姿。やはり貴方様にはその衣装が一番お似合いですね」
 スカリーの乾燥した唇が裂けるように弧を描く。
 思わずセベクは後ずさる。
 あんなに会いたかったのにスカリーの冷たい目から逃げたくて堪らない。恐怖を掻き立てるように心臓が激しく脈打つ。
「久しぶり、だな」
「ええ。貴方様が我輩にお手紙をくださらなくなって、どれほど経ったでしょう」
「……」
「貴方様にはたった一、二ヶ月程度でしょうが、我輩にとっては気が狂いそうなほどに長い時間でございました」
 肖像画のように温度のない瞳がセベクを責め立てる。
「ああ、貴方が憎い」
 セベクが後ろへ下がるだけ、スカリーが音もなく滑るように近づいてくる。
「僕は」
「貴方様は我輩の心に跡を残すのが相変わらず上手ですね」
 本当に狂ってしまったのか、スカリーは笑みを浮かべながらも目を爛々と光らせ、両腕をセベクに伸ばしてくる。
 セベクの足が壁に当たり、これ以上後ろに下がれないことを悟った。
 冷たい壁が背中の体温を奪ったせいだろうか、寒くて震える。手を壁に這わせるが、逃げ場がないことを実感するのみだった。身じろぎすると腿に固い石のようなものが食い込み、小さな痛みを覚える。
 そういえばポケットにマジカルペンを入れていた。退治こそできないだろうが、攻撃魔法で逃げる隙くらいは作れるはずだ。
 セベクはポケットに手を伸ばそうとして――すぐに力を抜いた。
 目と鼻の先まで迫ってくるスカリーに、セベクは深く息を吐いて目を閉じた。
 だが、何も起こらない。
 恐る恐る目を開けると、目の前のスカリーの顔からは狂気的な笑みが消え、代わりに弱々しく眉尻が下がり唇が震えていた。
「いやだ……セベク・ジグボルトは最後まで諦めないお方です、どうして、我輩にすべてを明け渡すお方ではございません、そんなわけがない、我輩が貴方にそうさせてしまった?」
 スカリーの目から半透明の涙がぽろりとこぼれた。そこにハロウィーンの王の威厳はなく、しゃくりあげて泣く一人のゴーストがいるだけだった。
「……憎まれても仕方があるまい。突然手紙を出さなくなったのは事実だ。僕が貴様を傷つけた」
 セベクは小さく呟いた。
 改めて言葉にすれば大したことではないように感じた。だが、仮にスカリーから突然連絡が来なくなったら何かあったのかと不安になり、何かしてしまったのかと恐れ、何も手につかない日々を送っただろう。それは自分の心がスカリーで埋め尽くされているからだ。まさか、スカリーが豹変するとは思ってもみなかったのが本音で、自分の行いによってここまで傷ついている姿にほんの少し高揚しているのが目を背けたい事実だった。
「ええ、ええ、その通りです。貴方様は我輩を傷つけ、怒らせた。どんなに辛かったことか……でも、貴方様であれば我輩を退けることは簡単でございましょう」
「……貴様をこれ以上傷つけたくなかった」
 その言葉は小さな小さな呟きだったが、スカリーにはすべて聞こえていたようだ。彼は大きな目をさらに大きく見開いた。しばらくぽかんと口を半開きにしていたが、みるみるうちに眉は吊り上がり、体中をわなわなと震わせた。部屋中の食器や装飾がカタカタと音を立てて揺れる。
「……我輩を? ハハッ……そんな優しさなんかいるものか、いるものか、これっぽっちも! 嫌いになったのなら嫌いとはっきり言えばいい、嫌いと言え、あの暗雲にとどろく雷鳴のごとく大きな声で!」
「スカリー、違う、」
 セベクはスカリーの怒りに満ちた形相に、このままでは悪いゴーストになってしまうと慌てて声をかけたが、まったく声は届いていないようだった。
「我輩を嫌いになったから、疎ましく思ったから!」
 目を見開いて、大粒の涙を流し、まるでハロウィーンの恐ろしいモンスターのような形相で叫ぶ。が、すっと突然無表情になった。部屋中に響いていた物のぶつかり合う音も静まった。
「……ああ、違う、セベクさんはそんなお方ではない……違う、そんなお方であっても我輩は受け入れなければ……信じなければ、信じ抜かなければ……」
 スカリーは髪を両手で掻きむしりながら、何かをぶつぶつと唱えていた。
「……セベクさんの教えを今こそ……」
「スカリー! 僕を見ろ」
 静かになりはしたが、状況は悪化しているように思えた。セベクはなんとかスカリーの気を引こうと、近くの菓子入れを床に叩きつけて大きな音を出した。
 耳が痛くなるような衝撃音に、目論見通りスカリーは呟くのをやめてセベクを見た。
「スカリー、落ち着け」
「……またも我輩は貴方様の前でこのような失態を……」
 目元を真っ赤に腫らしてスカリーは自嘲の笑いを浮かべた。
「貴方様の雷光で我輩をお止めになればよろしかったのに。なんの攻撃もできない菓子でなく。悪しきゴーストを退治すればディアソムニア寮の、ナイトレイブンカレッジのヒーローにもなれましょう。さすればマレウスさんへ素晴らしいご報告もできたでしょうに」
 そんなことしたくない、しようとも思わない。こんなことを自慢話にできるものか。
 ふつふつと怒りにも似た感情がセベクの腹の奥底から湧き上がってきた。
 どうすればこの男は話を聞いてくれる? 最初に不誠実な真似をしたのは自分だ、本音で話さねばこちらの声は聞こえないだろう――。
「スカリー、僕は、僕の手で貴様を攻撃したくなかった」
 スカリー、貴様を好きになってしまった。
 目の奥が熱くなるのを感じながら、セベクはスカリーから目を逸らさずにはっきりと言った。
「嫌いになるわけがない。嫌いになりたいとも思わない。好きなんだ」
「セベクさんが、我輩を……?」
 受け入れられない、とばかりにスカリーが呟いた。
 受け入れられるはずもないだろう。次に苦しむのはセベクの番だった。
「……悪い。貴様に忘れられない人がいるのは知っている。だから……僕のことは、忘れてくれ」
 途中から苦しくなり、声を詰まらせる。忘れてほしくない、何があろうと存在を刻みつけてやりたい。利己的な思いが胸を渦巻く。だが、恋愛小説の当て馬は美しく身を引くものだ。
「スカリー、貴様の幸せを願っている」
 堪えていた涙が一粒、セベクの頬を流れた。
「忘れるなどどうしてできましょうか」
 スカリーの声は震えていた。
「我輩も貴方様をお慕いしているというのに」
「そんなはずはないだろう。貴様は別の人が」
「セベクさん、我輩の素敵なお方、どうか信じてくださいませ。貴方様こそ我輩がずっと探していたお方であると」
 耳を疑うようなことをスカリーは言う。
「まだお話できないことが山ほどあり心苦しいですが、間違いなく貴方様は我輩の運命なのでございます」
 スカリーが何百年も一途に想い続けていた相手が自分であるなどと、にわかには信じがたかった。だが、彼が嘘をつく理由もない。
 想いが通じた喜びと、理解しがたいスカリーの言葉にセベクはすっかり困惑していた。
「どうか、信じてくださいませ……いえ、まだ信じられないお気持ちはよくわかります。いつかすべてをお話いたします。ですのでどうか、今は我輩のことだけを見て」
 スカリーはそっとセベクの頬に触れようと手を伸ばし――すぐに手を引いた。
「貴方様に触れられないこの身を恨みたいところですが、この体だからこそ貴方様にもう一度お会いできた……これも運命でございます」
 そう言って笑うスカリーの顔があまりにも悲しく見えて、セベクは思わずスカリーに手を伸ばした。
 青白い頬に触れると感触はなく、ただ寒気だけが全身に広がっていく。
 ぞくぞくと鳥肌が立つのも構わず、セベクはスカリーの輪郭を空で撫でた。
「確かに触れられないのは悲しいが、そうでなければ貴様は僕の前に現れなかっただろう」
 この世は説明がつかないことが多い。すべてを理解できるわけがなく、理解しないといけないわけでもない。今スカリーが目の前にいることだけがわかればいい。
「セベクさん」
 そっとスカリーの顔が近づいてくる。
 セベクは黙って静かに目を閉じた。
 唇に冷気のようなものを感じ、スカリーが触れたのだと理解した。
 痺れにも似た肌のざわめきが広がると共に、頭はぼうっと何も考えられなくなっていった。
 どれだけそうしていただろうか、徐々にセベクの唇は体温を取り戻し、名残惜しく思いながら目を開けた。
「――想い焦がれていた方と通じ合えるというのは、こんなにも嬉しいことなのですね」
 頬をうっすらと染めてスカリーははにかんだ。
 その様子にいじらしさを感じて、セベクはこれが愛しいという感情なのかと熱い息を吐いた。

「――セベクさん、その手は」
 無言で目を合わせたり逸らせたり、なんと形容していいかわからないくすぐったい時間を過ごしていると、スカリーが突然鋭い声を出した。
「なんだ……あっ」
 セベクの両手が半透明に透けていた。
「一体どうして……セベクさんはまだ生きていらっしゃるというのに!」
 悲鳴を上げるスカリーをよそに、セベクは妙に冷静だった。意図したわけではないが、こうなるだろうと予想していた。
「スカリー、聞け。僕が手紙を送らなくなった理由を話そう」
 セベクは淡々とサムの話をそのままスカリーに伝えた。

「我輩の手紙が貴方様を死に導いていたと……では今のセベクさんも……我輩が今日ここに来たから」
 話し終えるとスカリーはただでさえ白い顔をさらに真っ白にして、口元を手で覆った。
「文通に応じたのもやめたのも、今日のことも僕の選択だ。貴様が気に病む必要はない」
 あの薬は二回目は効かない、次があったら最後であるとサムは言っていた。このまま死んでいくというのに現実味がなく、恐怖も悲しみも感じなかった。
 スカリーのすすり泣きが隣から聞こえてくる。
「後悔はないのですか、未練は、貴方様には未来があったはずなのに」
 確かに一度はスカリーより将来を選んだ。一生をかけて叶えたい夢、目標があった。今も選べるのなら将来を選んだだろう。だが、向こうが透けて見える自分の手を見て、不思議と穏やかな気持ちになっていた。今二度目の選択を迫られたなら、きっと迷っただろう。だからこれでよかったのだ。
 植物園の採光窓から光が差し込んできた。
「スカリー、今日はハロウィーンだ。楽しもう」
 セベクは涙を流し続けるスカリーの手を取る。相変わらず掴めなかったが、寒気を感じることはなかった。

 人目を避けながらセベクとスカリーは校内を回った。
 賑やかなハロウィーンの空気に触れ、スカリーの頬はいつの間にか乾いて笑みが浮かんでいた。
「今年のディアソムニアのコンセプトはどうだろうか」
「これ以上ないくらいに素晴らしい展示でございます。ハロウィン・タウンの雰囲気が見事に再現されていました」
「貴様が手紙でいやというほど話してくれたからな。行ったことがあるかのようにイメージが湧いてきたんだ」
「たくさん手紙をお送りした甲斐がございました。その、今着ていらっしゃる衣装もとてもお似合いです」
 スカリーに褒められ、セベクはこそばゆくなりハットを被り直した。
「貴様の衣装を参考にして作っただけだ。骨のデザインがハロウィーンらしくて好ましかったからな」
「……そうでございましたか。我輩もこの衣装はとても気に入っております。学生時代にデザインしたものですが、こうして一生着ていたくなるほどに」
 機嫌よくしたスカリーはその場でくるりと回って見せた。
「貴様にはデザインの才もあるんだな。僕は原案こそ出したものの、デザインが得意な寮生にたくさん駄目出しされてしまった。展示のデザインも、ハロウィン・タウンと学園のハロウィーンの融和をコンセプトにしたのだが、ちぐはぐになってしまったところはだいぶ寮生に助けられた」
「セベクさんには頼れる方がたくさんいらっしゃるのですね」
「フン、僕が完璧だと寮生の仕事がなくなるから抜けを作ってやっただけだ」
 わかりやすいセベクの虚勢にスカリーはただ黙って微笑んでいた。 

 日が暮れ、思い思いの仮装をした生徒たちが校内を練り歩く様子を、離れた木陰から眺める。
 その頃にはセベクの体は手から肩までが半透明になっていた。
「今年も盛大なパレードを見られてとても嬉しゅうございます」
「ああ。やはりこれが一番の見せ場だ」
 本来ならセベクもパレードに参加する予定だったが、急用ができたと言って副寮長に代理で参加してもらっていた。
「……我輩のせいで」
「スカリー、この話は終わったことだ」
「しかし!」
 スカリーがセベクに生を諦めるなと言えば言うほど、セベクも一度は諦めたはずの生に未練が湧いてきてしまっていた。今もこのきらびやかな景色を見て、まだここにいたいと思ってしまっている。
 だが、もう方法はない。一度目のときに調べられるものはすべて調べた。
 スカリーがどれだけ説得しようとしたところで、セベクは覚悟を決めていた。
「久しぶりに資料室……読書倶楽部の部室に行かないか。今年はまだ行っていないだろう?」
「……ええ、行きましょうか」

 スカリーをずっと待っていた椅子はそのまま置いてあった。
「サムの薬を飲んだらあの本が消えてしまったんだ」
「あの本は神出鬼没。我輩もある日突然見つけたものでございます。奇跡的にしばらくこの戸棚にいてくれたようですが、今はどこに眠っていることやら」
 スカリーは懐かしそうに室内を回ってあちこち見ていた。橙の陽光を透かしたスカリーの体がほんのりと光る。
「ここでセベクさんにお会いしたことを昨日のことのように覚えております」
「僕もだ」
「セベクさんはあの日、ここで何をされていたのですか?」
「休憩をしていた。ここは人が来なくて落ち着けるからな。その上本が大量にある。時間を潰すにはもってこいの場所だ……S.Gの日記はここで見つけたんだったな。彼の楽譜は音楽準備室だったが」
 久しぶりにS.Gの名前を出した気がする。
「S.Gでございますか……まだ彼をお探しで?」
「ああ。だが今度からは僕も探そう」
 セベクは手遊びに床に積まれた本の埃を払った。
「……探す必要はございません」
「どういうことだ?」
 スカリーの言葉を特に気に留めることなく、セベクは本の山々を眺めた。この景色も今日で見納めか。
「我輩がS.Gでございます」
「そうか……ん? 今なんと言った?」
「我輩が、S.Gでございます」
 セベクはスカリーに向き直り、その紳士的な微笑みを浮かべる顔を見つめた。
「S.G……スカリー・J・グレイブスのことでございます。かつて読書倶楽部に所属し、特技をオペラとし、ハロウィンの研究にすべてを捧げておりました。まさか我輩の記録が部室に残っていたとはつゆほども思わず」
 スカリーは微笑みを崩さず淡々と言った。
 セベクはスカリーの言葉をうまく働かない脳で少しずつ咀嚼していた。
 スカリーがS.Gだったと。
 そういえば思い当たる節はあった。よく似た癖字、ジャック・スケリントン信者、S.G探しを依頼したときの妙な反応……。挙げてみれば気づかないほうがおかしいくらいだ。
「どうして言ってくれなかったんだ、一年も」
 裏切られたという気持ちにはならなかった。S.G探しがあったから一年も繋がっていられたようなものだからだ。
「だって、恥ずかしいじゃありませんか」
 スカリーは頬を染めて目を伏せた。
「若気の至りが充満した日記と恋にのぼせた勢いで作った曲が残っていただなんて。我輩はオペラも読書も好きですが、ついぞ作り手に回ることはできませんでした。あんな稚拙な文章と曲が見つかってしまうなんて。ああ、どうして卒業したときに処分しなかったのでしょう……」
「その……悪かった。勝手に日記を読んだりして」
 当時の風俗資料だなんだといって好奇心に任せて読んだことをセベクは心底反省した。スカリーの記録だと知れば決して後悔はしていないが。毎晩の軽い読書として読んでいたことは墓場まで持っていこうと固く決意した。
「ええ、非常に恥ずかしかったので謝っていただいても許せません。いただいたお手紙の中で我輩との共通点を挙げられたときはどのようなお返事をすればいいのか、本当に頭を悩ませたものです……でも、我輩が貴方様に言わなかったのはそれだけが理由ではありません」
「ほかにもあるのか」
「……お恥ずかしいのですが、過去の自分に嫉妬、しました……」
 顔を手で隠しながらスカリーはおずおずと言った。
「お手紙の中の貴方様は我輩にこれっぽっちも興味がないのにS.Gのお話ばかりで。わざとS.Gから話題を逸らして文通を長引かせておりました」
「そんなことか……僕はいつの間にか貴様に惹かれて、S.Gが見つからなければこの関係が終わることはないのに、と思っていたのだが」
 セベクは笑い混じりのため息を吐き出した。互いに自分自身に嫉妬していたとは、とんだ笑いぐさである。
「文通を長引かせたかったのはお互いだったようですね。その結果、セベクさんをお辛い目に遭わせて今日もこんな……」
「スカリー、この話は終わったことだ」
 無駄に足掻くことはいくらでもできた。サムにもう一度話を聞きに行ったり、教師や学園長に相談したり、ゴーストの手を借りたり。茨の谷に連絡を取って知恵を借りることもやろうと思えばできた。
 だが、生にしがみつく様を見せるのはスカリーを拒絶することになるのではないかと、躊躇いがあった。
 スカリーを透かして外の星が見える。時間は刻一刻と迫っていた。
「セベクさんはこれでよいのでしょうか」
「何度も言わせるな」
 生きたいか死にたいかと聞かれたら、生きたいに決まっている。マレウスの傍で働くどころか卒業すらできていない。寮長になったばかりで何もやり遂げていない。
「サムさんは、ハロウィンは境が曖昧になると仰っていたそうですね。時期が味方すれば二回目も助かる可能性があるとも」
「ああ、そうだ」
「それであれば戻ることもできるのではないでしょうか」
「どういう意味だ」
 思いついただけでなんの根拠もないが、とスカリーは前置きして説明した。
 世界の境が曖昧であるうちに再度生を取り戻せばよいのではないかと。
「ゴーストと接して境が曖昧になり魂が引きずられるのであれば、もっと多くの方々がハロウィンの日に生から離れるはずです。一度目のときは、本を通して無理にあの世とこの世を長時間繋ぎ続けたからセベクさん自身の境が曖昧になりました。境がはっきりとしている時期だったので、貴方様の体から引きずり出された魂は戻りたくても自力では戻れなかったのです。そして今セベクさんが透明になっているのは、世界の境が曖昧になっているときにその……我輩を通して体の中であの世に繋いでしまったからではないでしょうか」
 スカリーを通してというのはどういうことか聞こうとして、彼の頬がうっすら赤くなっているのを見て察した。つられてセベクの頬も熱を帯びる。
「そ、それならばどうしたら元に戻れるというのだ」
「ハロウィンの終わりと共に世界の境が引き直されます。ですから、世界が曖昧なうちにセベクさんが戻りたいと願えば、魂は収まるべきところへ収まるでしょう」
「ただ待っていろということか?」
「ええ。ご自分の居場所はセベクさん、貴方様が一番おわかりのはずです。強い願い、強い意志が奇跡を起こすことも」
 スカリーはセベクが生きたいと思っていることを見抜いているようだった。隠し通せていると思っていたのだがとセベクは乾いた笑いを漏らした。
「言ったでしょう、幸せに生きていただきたいと。その思いは今も変わりません」
 初めて会った日、何十年でも何百年でも待つつもりだと熱く語ったスカリーを見て、恐ろしくも羨ましくもあったことを思い出した。誰かから一生分の愛を注がれるのは、形容しがたい満足感があるものだと知った。
「どうか生きてくださいませ。我輩は常に貴方様を想っております」
「……わかった。ハロウィーンの王に恥じぬ生き様を見せてやろう」
 ようやくスカリーの前で生きたいと言えたことに安堵し、肩の力が抜けた。なんの準備もしないまま死んでしまうのは、覚悟を決めていても空しさがある。
「貴様と共に生きられたらよかったが、こればかりはどうにもならないな」
 生きるか死ぬか、この場には極端な選択しかない。どちらを選んでも後悔することはわかりきっていた。だが、選ぶとしたらやはり生きる道のみだった。
「時は必ず経つものです。我輩は気長にお待ちしております。どうか死に急ぐことだけはなさいませんよう」
「当然だ。僕はマレウス様に生涯仕えるという使命があるのだ。むやみにその時間を減らすことはしない」
 セベクは胸を張って言った。

 夜は更けていく。
 一般客はとうに帰り、ハロウィーンをやり遂げた生徒たちは緊張の糸が切れたように早々と自寮に戻っていった。
 風の音を聞きながら話したり沈黙したり、互いに触れられないまま手を繋ぎ、残された時間を二人は楽しんでいた。
 そのときは突然訪れた。
 ぞわり、と繋いでいた左手からセベクは寒気を感じた。半透明だった両腕に感覚が戻っていく。指先の細い血管に脈動を感じる。
 生きている。
「ああ、もう時間でございますね」
 セベクとは反対に、スカリーの下半身はゆっくりと透明になっていた。
「行くのか」
「ええ」
「また来年のハロウィーンに」
「いいえ、我輩はもう貴方様とは会いません」
 だんだんと薄くなっていくスカリーはきっぱりと言い切った。今後も会えるだろうと信じていたセベクは、その言葉に後頭部をぶたれたようなショックを受けた。
「な、なぜだ、やはり僕が生きたいと言ったのが気に入らなかったのか」
「まさか。セベクさんが幸せに生きるのは我輩の今一番の願いでございます。ですが次にお会いしたら、次こそ世界が曖昧なのをいいことに連れ去ってしまいそうで」
「そうか……」
 気にしない、連れて行ってくれてもいい、とは嘘でも言えなかった。
「その代わり、いつでも貴方様を見守っております。日記と楽譜はお恥ずかしいですが、貴方様にすべて差し上げます。どうか我輩のことを忘れないでくださいませ」
「……これが本当に最後なんだな」
 スカリーは黙って笑った。
「それでは、我輩の素敵なセベクさん、またお会いできる日を不謹慎ながら楽しみにしております」
 消えかかっている顔が近づき、耳元で小さくリップ音が鳴る。文句を言おうとしたが、既にスカリーの姿はなかった。
 先ほどまでスカリーがいた場所に手を伸ばす。
 手は空を掴み、何も感じない。
 胸は苦しく心臓が痛んだが、悲しくはなかった。ほんのわずかに寂しさがあったが、それよりもいつか会える日への期待が強かった。
「土産話をいくつも用意してやろう。マレウス様の治められる世界の話、そして僕がこれから経験するハロウィーンの話、それから――」
 スカリーはどんな話を喜んでくれるだろうか。いや、どんな話も喜んで聞いてくれるに違いない。
 資料室の窓は開いていないのに、カーテンが揺れていた。

スカセベ,短編

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