これはおいしいお寿司

No.60

俺がアンタのオム・ファタール

-ジャックがレオナを狙う女の子とバチバチやり合う話

「あら、来たわね、どこの狼の骨ともわからない男が」
「尻尾を巻いて逃げると思ったのに、意外とやりますのね」
「さ、こちらにお座りなさいな。歓迎しますわ」
 様々な香水の匂いが複雑に混ざって――しかし、悪臭ではない――、人の匂いを識別できない部屋の奥、薄暗がりに座る女性が三人。
 タイプはそれぞれ違うが、皆意志の強い瞳を持っていることは共通していた。
 その中に紛れ込んだ唯一の男、ジャック・ハウル。
 齢二十五にして女の群れに立ち向かうこととなった。

 ジャックはNRCを卒業後にすぐ夕焼けの草原へ体一つで渡り、苦労して第二王子直属の護衛見習いの職を得た。就活すること五年、長い戦いだった。
 その日暮らしの生活をしながら、外国籍の人間でも働ける王宮の仕事を探すのは並大抵のことではなかったが、最終面接の面接官に気に入られたらしく、特例で第二王子直属の護衛見習いとして働くことが許された。
 いつか出世してレオナの傍で働ける日が来る、そんな希望を胸に抱いてジャックは王宮へ出仕することになった。
 だが。

「最近殿下の近くをうろついているようね」
「一体何が楽しくてこんな大男を」
「レオナ殿下はお心が広いから、優しくしてらっしゃるのですよ」
 今、ジャックは汗の匂いが立ちこめる寄宿舎ではなく、香水や菓子の匂いが立ちこめるきらびやかな部屋で冷や汗をかいていた。
「あの、俺はどうして呼ばれたんすか……」
 ジャックは自分よりも小柄な女性たちを怖がらせないよう、なるべく声を柔らかくして聞いた。
 せっかくの休日をここで潰したくない。さっさと用事を終わらせてほしい。
「せん……殿下がなんか関係あるんすか」
 ジャックの問いに、亜麻色の髪の女性が笑った。
「どうして、ねえ。どうしてだと思う?」
 テーブルを挟んで距離があるのに、女性の笑顔から放たれる威圧感にジャックの毛がざわざわと震える。
「さあ……」
「一介の見習いが、庶民が、どうして私たちと対等に口を利いているのかしらねえ」
「あっすみません」
「いいのよ、私は殿下と同じく寛容な心を持っているから」
 優雅に亜麻色の女性が微笑むが、瞳は笑っていなかった。
「それで――なぜここに、ってことだったわね」
「知っていますのよ、お前が殿下の部屋に入り込んでいるのを」
 金髪の女性が口を挟んできた。
 彼女は笑顔を見せることなく眉を吊り上げ腕を組み、ジャックのことが気に入らないと全身で表していた。
「入り込んで……いえ、仕事の一環で」
「ふふ、嘘おっしゃい。お前の仕事は見張りだというのに、殿下のお部屋で何を見張ると言うのかしら」
 黒髪の女性もジャックを鋭い眼光で見つめてくる。口元だけがにこやかだ。
「それは……」
 女性らの雰囲気に圧され、ジャックは言いよどむ。
「別にいいのよ、お前が殿下のお部屋で何をしていようが。でもあまりにも哀れでたまらなくなって。殿下のことを何も知らぬお前を助けてやらねばと呼んだの」
 亜麻色の女性は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。ジャックの背筋がぞくりと寒くなる。
「何も知らない、とは……?」
「殿下はお優しいの。殿下を頼りにする者を拒めない方ですのよ。つきまとっているお前を無下にできないだけ」
 金髪の女性は更に眼光を強めてジャックを睨んだ。
「そう、私たちのことも遠くにやってしまえない、優しくて酷い人……」
 黒髪の女性はジャックから目を逸らし、ふいに俯いた。
 その言葉がきっかけになったのか、金髪の女性がジャックを睨んだまま涙を零した。亜麻色の女性から笑顔が消えた。
「そう、真面目に相手にされないのはお前だけじゃない、私たちも。誰も拒まないということは、誰も特別になれないのと同じ」
 亜麻色の女性の呟きに、場が静まり返った。
 爽やかで、甘い花の香りだけが空気を漂う。
 ジャックは、再会した日から今までのレオナを思い返していた。


 屈強な兵士たちが廊下を行き来している。
 ジャックの目の前を歩く近衛兵は、長い尾を左右に揺らし、後頭部の高いところで結った長髪も足音に合わせて左右に揺らした。
 ジャックは着慣れない服の襟を正し、近衛兵の後を追う。
 王宮の廊下からは雄大な自然が見える。
 人々の生活と手つかずの大地が背中合わせになっている光景は、市街地でずっと暮らしてきたジャックには目新しいものだった。
 頑丈そうな木の扉の前に立ち止まり、近衛兵が扉をノックした。
 扉が開き、一礼して中に入る近衛兵に続く。
 古い本とインク、そして懐かしい匂いで部屋は充満していた。
 ジャックは事前に指示されていた通り、近衛兵が立ち止まった一歩後ろで跪き、部屋の奥にいる人物を見ないように頭を垂れた。
 足に触れる絨毯は柔らかく、床の冷たさも固さも感じなかった。
「殿下。本日より護衛見習いとして仕えることになりました、輝石の国出身のジャック・ハウルです」
 頭上から聞こえる、近衛兵による紹介は他人事のように響いた。生まれてから今までの経歴に嘘偽りはないのに、自分の人生のように聞こえない。
「――わかった。お前は下がれ」
 冷たい響きの中に懐かしさを感じる声が、近衛兵を部屋から追い出した。
 静かに扉が閉まり、部屋に二人分の息遣いだけが聞こえる。ジャックは手が汗ばんできているのを感じ、ひっそりと深呼吸をした。
「顔を上げろ」
 その声は決して大きくないのに、部屋に響き渡った。
 人に命令することに慣れており、目に映るものすべてを支配せんとする声音だった。
 一瞬息を詰め、意を決してジャックは顔を上げた。
 窓から差し込む光が、奥にいた男の顔を照らす。
 豪華な装飾に囲まれてなお、ひときわ輝く鮮やかな新緑の瞳が太陽にきらめいた。
「久しぶりだなァ、ジャック」
 テノールの美しい声がジャックの耳を震わせた。
 この声で自分の名前を呼ばれるのはいつぶりだろうか。
「お久しぶりです、レオナせんぱ……殿下」
 もたつく舌で慌てて返答しようとし、以前の呼び名が飛び出してしまった。平静を装って言い直したが、レオナにはすべて聞かれてしまっているだろう。心臓がどくどくとうるさい。
 湿った手のひらを握りしめ、レオナを見上げる。
 レオナはきらびやかな椅子に座り、目を細めてジャックを見下ろしていた。
 距離は約四、五メートルといったところか。想像よりも狭い部屋なのに、レオナがとても遠く感じる。
「殿下……殿下なァ……」
 レオナがうっすらと笑いながら繰り返す言葉を、ジャックもまた口の中で繰り返した。
「俺は能力のある者は誰でも取り立てる。どんな種族でもだ。それを聞いた国中ののし上がりたい奴らが、俺のところにやってきた。だが――」口元に笑みを浮かべて「――国境を超えてきたのはテメェが初めてだな」
 レオナは指先で、ジャックに近くへ来るよう示した。
 ジャックは一瞬躊躇い、今はレオナ以外いないから多少しきたりを破っても大丈夫だろうと立ち上がった。
 大股で二歩、三歩とレオナの元へ足を進める。
 顔色ひとつ変えずにレオナはジャックを見つめている。
 椅子に座るレオナの真正面に立ち止まると、自然と彼を見下ろす位置になった。
 果たしてこれは不敬に当たるだろうか。
 付け焼き刃の礼儀しか学んでこなかったジャックは、膝をつくべきなのか腰をかがめるべきなのか悩んだ。
 逡巡するジャックに構わず、レオナはなんてこともないようにジャックを見上げた。
「実力で上の連中を黙らせやがったな」
 その顔は、まるで学生時代に戻ったようだった。
 何かをやり遂げた群れの一員を褒める寮長の姿が、瞬時に蘇った。薄い唇から牙を覗かせ、眉を持ち上げて、よくやったと言う。時に頭を豪快に撫でられ、時に背を叩かれ、胸に拳を当てられ、そうやって褒められるのが好きだった。
「どんな試験を受けたんだ」
 あのときと変わらず、今からどう褒めようかと前のめりになってレオナが聞いてくる。
「ええっと、書類審査と筆記と実技と面接、です」
 毎日よいものを食べているのか、それとも運動をする機会がないのか、レオナの輪郭は少し丸くなったように見える。それでも、最後に会ったときから何一つ変わらないように感じられた。
「テメェが卒業して五年、二十五か。見習いとして入るには遅いが、どうせ書類と面接で何度も引っかかった口だろう」
「まあ、そうっすね。やっぱり国籍が違うのがネックで」
「帰化すれば書類で引っかかることはまずないが――」
「そんなに待てませんでした」
「そんなに、か」
 ジャックは夕焼けの草原に引っ越して、まず民間の警備会社に就職した。
 そこで働きながら、外国人でも応募が可能な王宮の仕事で、レオナに関連がありそうな職種に応募し続けていた。
 レオナの言うとおり、はじめの二年は書類審査も通らなかった。次の二年では筆記と実技は通るものの、複数回ある面接が通らなかった。最後の一年にようやく最終面接に辿り着き、合格することができた。
「だが、今年は護衛なんざ募集していなかったはずだが。どこに応募したらここに就職することになるんだ?」
「え……っと。成り行き、で」
 ジャックが言葉を濁すと、探るようにレオナは目をすがめた。
「へえ、成り行きか。あの頭の固い連中がな」
「そ、そうです。俺にはよくわからないんですけど」
 まさか、最終面接で気合いを入れすぎてレオナについて熱弁した結果、面接官に気に入られたからだとは言えなかった。それも、第二王子の護衛の下働き――護衛の雑用係みたいなもの――に応募したのに、特例でレオナの護衛見習いに合格できたなどと。
 レオナの視線に耐えられず、ジャックはそろりと目を逸らした。
「まあ、いい。これからが楽しみだな」
 落ち着かずに俯いていると、ゆっくりと立ち上がったレオナの爪がジャックの手の甲を引っ掻いた。
 突然の刺激に驚いて手を引っ込めると、レオナはにやりと笑う。
「び……っくりした……なんすか、いきなり」
 少し触れられただけのはずなのに、じくじくと痛むような手の甲をさする。
 レオナはジャックの問いに答えなかった。
 そして唐突に襟を掴んで引き寄せられたかと思うと「頼むぞ、俺の護衛」そのまま耳に息を吹き込むように囁かれ、ジャックは背筋を震わせた。

 ジャックの朝は早い。
 起床のラッパが鳴る二時間前に起きて寄宿舎周りを走り、シャワーを浴びて、ラッパが鳴る頃には身支度を整えている。
 そしてベッドメイキングをしてから朝食を摂るために食堂へ向かう。
 食堂でほかの見習いや新米の護衛たちと食事を共にし、午前中は訓練、午後はそれぞれの持ち場で仕事について教わる。最初は第二王子の居住区付近の見回りが多い。
 夜になると寄宿舎のシャワー室で汗を流し、食堂で夕食を摂る。そのあとは就寝時間まで自由時間で、ジャックは家族に連絡をしたり筋トレをしたりしている。
 そして、時間になったら見回りが来る前に就寝する。
 毎日この繰り返しだ。

 レオナの朝は遅い。
 侍従の朝を告げる声を四度無視し――五度無視するとキファジがやってくるので、五度目で起きる必要がある――、顔を洗って自室に運ばせた朝食を摂る。
 朝食後には図書館に籠もろうとするのを侍従が止めるため、仕方なく自室で食後の一眠りをする。
 起きたら昼食の時間になっているので、自室で新聞を読みながらサンドイッチ(野菜抜き)を食べる。
 昼寝をしようとすると侍従が仕事を持ってくるため、仕方なく執務室で書類を読んで突っ返したりサインをしたりする。
 そうこうしているうちに眠くなってくるので、執務室に置いてあるソファベッドでしっかり昼寝をする。
 起きる頃には夜になっているので夕食を摂る。夕食は稀にチェカが一緒に食べたいと駄々をこねるので、いやいや王族勢揃いの場に出ることもある。
 夕食後は侍従もほっといてくれるので、ようやく図書館に向かう。そこで司書の仕入れた新作を吟味しつつ、まだ読んだことのない古書を発掘して夜明けを迎える。
 一段落したところで自室に戻り、遮光カーテンを閉めてぐっすりと眠る。
 毎日この繰り返しだ。

 ジャックは、初日以来レオナとまったく顔を合わせることがなかった。
 見習いはお偉方を見る機会なぞそうそうないと上官や先輩らに言われたから、レオナに限らずそういうものなのだろう。
 ジャックは今日も第二王子の縄張りで侍従やメイドが行き来しているのを眺める。交代制で区域ごとに見張りをすることになっているわけだが、これがなんとも暇である。
 なにしろ、トラブルがない。
 今は第二王子の居室へ繋がる渡り廊下の付近に立っているが、ここは第二王子に仕える人間しか通らず、決まった顔ぶれしか来ないから不審者も紛れにくい。
 着任したときは緊張感を持って通り過ぎる人全員の顔と挙動を確認していたが、一ヶ月もこの業務をしているうちに、ほとんどの人の顔と名前を覚えてしまった。そうなると、顔を合わせると軽く会釈するだけの人から顔を見るたびに雑談を振ってくる人までそこそこな仲になり、気が緩んでくる。
 雑談は、今日の夕食のメニューやガソリンの値段といった日常的な会話から、レオナが今日もキャベツを残していたなどの王族の話題まで、様々である。
 ほぼ部外者のような見習いに話してしまって大丈夫なのか心配になる話題もあるが、ジャックはレオナの話題ならどんなものでも聞きたかった。
 レオナの名前への食いつきぶりから、ジャックがレオナの熱狂的なファンであることは使用人の間ですでに広まっており、積極的に『今日の殿下』について話しに来てくれる人もいる。
 そういった人の噂を頼りに、ジャックはレオナの生活を辿っていた。
「やあ、ハウル」
「フィールさん、こんにちは」
 今話しかけてきたのは、レオナ専属侍従でシマウマの獣人属であるフィールだ。
 毎朝レオナを起こすのに苦労しているらしい。ほかにも時間さえあれば寝ようとするレオナから書類にサインをもらうことに必死だとか。
 渡り廊下は外と繋がっており、簡素な柱が外と廊下を区切っている。当然空調はなく、フィールもジャックも時折ハンカチで汗を拭いている。
「今日の殿下はご機嫌がななめでいらっしゃる。うっかり朝食のスープにニンジンが入っているものを出してしまった。きっと今日はずっと図書館に籠もられ、仕事をしていただけないだろう。私は愚かだ。キッチンの新人に野菜のことを伝え忘れてしまうだなんて」
 フィールは、最初の頃は愚痴なんてありませんよとにこやかな顔でレオナを褒め称えていた。だが、ジャックがレオナの学生時代に授業をサボりまくっていた話をするやいなや、レオナのネガティブな一面を話しても大丈夫だと判断したらしく、今やフィールの話のほとんどがレオナの愚痴になっている。
「シマウマの獣人属なんて王宮で大成できないと親に言われましたが、レオナ殿下にお声をかけていただき、侍従という名誉ある職に就けたときは一族の名誉だと思いましたがね――ええ、キファジ様が特別なだけで、基本的に肉食動物以外の獣人属はあまり高い地位にいないんですよ、ハイエナは別ですが――私の仕事といったら口うるさい母親のようなものですよ。朝はちゃんと起きなさい、野菜も食べなさい、たまには運動をしなさい……おまけに仕事をされないから書類が滞って苦情を言われるのはこの私。ああ、辛い」
 顔を覆い、嘆くフィールを見てジャックは声を出さずに笑った。
 相変わらずのんびりとした生活をレオナは送っているようだ。
 フィールの愚痴は続く。
「おまけに女性を突き放さないものだから、女たちが我が物顔で殿下の居室に入り浸るありさま。私の知らないところで王家の血が増えていたらどうすればいいのか……お優しいのと誠実なのは違うと何度申し上げたことか」
「女性?」
 話の中で突如現れた聞き慣れない単語に、ジャックは耳をぴくりと動かした。
「ええ。女性です。大方王室に血のつながりを求める家の差し金でしょうが、殿下はお優しくいらっしゃるので追い返さないのです。殿下が追い返さないから私も止めることができず。ここ一ヶ月ほどは見かけなかったから大人しくなったと思いきや、また現れるようになって。まだ噂になっていないからいいものの、ああ、恐ろしい。肉食動物の女性の力は私に匹敵する――」
 レオナが女性と関係を持っている。
 それも複数。
 くらりと目眩がした。
 フィールの声が遠くなる。
 夕焼けの草原の陽射しがやけに強く感じた。


 レオナは植物園のいつものところで眠っていた。
 ジャックはラギーに言われてレオナを授業に引きずっていくために探していたのだが、午後の授業の鐘が鳴るまでもう少しある。あと数分だけは寝かせておくかと、ジャックはなんとなくレオナの横に腰を下ろした。
 外は暑いが、植物園の中は空調が効いていて、ちょうどレオナが眠っているあたりは春のような暖かさに包まれていた。
 ゆったりとした人工の風がジャックの前髪を撫でた。夏の陽射しがガラスの天井を突き抜けて降り注ぐ。
 レオナは瞼を閉じて眠りの世界を堪能しているようだった。気持ち良さそうな寝息を聞いていると、眠気が移って座りながら眠ってしまいそうだ。
 ジャックは時間を確認し、こうしてはいられないとレオナの肩に手を掛けた。
「レオナ先輩、もう授業が始まりますよ。次の授業、既に三回サボってるらしいじゃないっすか。単位落としますよ」
 軽く揺さぶり声をかけても、うーんと唸るのみで起きる気配がない。
「レオナ先輩! 先輩が起きねえと俺授業に出られねえんですけど!」
 耳元で大声を出すと、レオナは眉間に皺を寄せてゆっくりと目を開いた。
「……うるせえ」
 むすっとした顔でレオナは呟いた。
 ジャックはその態度に苛立ち、荒々しく立ち上がった。
「授業始まるんで、ほら、立ってください」
 レオナはまだ瞼が重そうで、うっかり眠りかけていた。
「レオナ先輩!」
 ジャックはレオナの両手を掴み、無理矢理上半身を引きずり上げる。
「授業なら一人で出てろよ……」
「ラギー先輩に約束したんで。ほら」
 うにゃうにゃ言うレオナの両脇に腕を差し込み、抱きかかえるようにして立ち上がらせる。
 レオナは立ち上がるも、そのままジャックに体重を預けてきた。
「レオナ先輩立ってください、重い」
 完全に脱力しきっているレオナを支えるのは、いくら筋肉が自慢のジャックといえど厳しいものがある。まだ同じ重さのダンベルのほうが持ち上げやすい。
 それに、レオナを正面から抱きしめるこの格好で学園内をうろつくのはごめんだ。なんだか落ち着かなくなってしまう。
 レオナと密着している状態にどぎまぎしながら、背中に手を回していいのかわからず、ジャックの両手は宙に浮いていた。
 先輩と後輩の距離感はこういうものだったろうか。
 ジャックの肩口で寝息を立てているレオナが恨めしい。
 ――寝息が、聞こえる?
「って、また寝やがって! 先輩、レオナ先輩!」
「……騒ぐなよパピーちゃんがよ」
 寝ぼけているのか、レオナがなだめるようにジャックの髪を撫で、背中を軽く叩く。
 その優しい手つきに、ジャックは自分の顔にじわじわと熱が集まるのを感じた。
「子犬じゃねえ……」
 その熱が恥ずかしさからきているものか、別の理由なのかはわからなかった。
 行き場を探していた両手は、レオナの服の裾をそっと握りしめる。
 春の陽気にレオナの体温は心地よく、離れたいような離れたくないような迷いが生じた。
 結局、授業開始の鐘が鳴るまで、ジャックはレオナの寝息を聞きながら植物園に立ち尽くしていた。

 その日は暑くてなかなか寝つけずにいた。
 同室者たちは暑さに慣れているのか、先にベッドに入ったジャックを置き去りに高いびきをかいていた。何時間まんじりともできずに瞼の裏を見ていただろうか。スマホで時間を見て、日付が変わったことにため息をついた。
 水を見て涼もうと、ジャックは皆を起こさないように足を忍ばせて談話室に向かった。
 ぴちゃ、ぴちゃと軽やかな音の聞こえる方向へ近づく。水音を聞くだけでもわずかに涼しくなった気がする。いつも透き通っている水に触れることができれば、もっと気分はよくなるはずだ。
 水音だけが聞こえる談話室に入る。
 自室より数度気温が低く感じる。
 薄暗い談話室の中で、滝から流れる水だけが月明かりにきらめいている。
 ジャックは灯りに誘われる虫のように、ふらりと足を進める。水盤まで近寄り、膝をついてそっと手を差し入れる。水は夏場にもかかわらずよく冷えており、手から体中に冷たさが染み渡っていく。
 慣れない暑さからようやく抜け出せたことに、ジャックは深く息を吐いた。
 指先で水をかきまぜ、冷水を堪能しているうちにもっと体を冷やしたくなってきた。
 サンダルを脱いでズボンの裾をまくり、爪先から水に入れる。その冷たさに一瞬震え、堪らず一気にふくらはぎまで浸かる。
 汗が引いていく感触に目を瞑った。
 誰もいない談話室で、行儀悪く足を水に浸けたままごろりと横になる。
 暑い部屋ではやってこなかった眠気がそろりと足を忍ばせて近寄ってくる。
 腹の上で両手を組み、自室に水の張ったタライを置いて足を入れて眠るのはなかなかいいアイディアではないかと考え始めたときだった。
 頭上で足音が聞こえた。
 こんな時間に一体誰だろうか。
 心地よい眠気に目を開くのが億劫で、耳と鼻の感覚に集中する。
 足音からわかる体重、歩き方、そして近づいてくる香り。
 レオナだ。
 足音の持ち主はジャックの近くで立ち止まった。
 ジャックはのっそりと瞼を持ち上げた。ぼやけた視界にレオナの瞳が見えた。
 頭付近で突っ立っているレオナが真っ直ぐに見下ろしていた。
「……こんばんは」
 なぜここにだとか、レオナも暑かったのかだとか、また夜更かしかだとか、言葉が浮かんで消えて、口から出てきたのはただの挨拶だった。
「おう」
 レオナは返事をしながらその場にしゃがんだ。
 自然とレオナの顔が近くなり、ジャックは瞬きをした。
 目を合わせたまま、互いに何も言わない。とうとうと流れる水の音が二人の間をすり抜けていく。
 ジャックは、レオナの無表情の瞳に自分が映るのを黙って見つめていた。
 水で冷えた体にじわじわと熱が戻ってくる。
 レオナの体温が移りでもしたのだろうか。
「……ジャックが夜更かしするとは珍しいな」
 ぼんやりとレオナを見つめていると、ふいにレオナが口を開いた。
「……暑くて、眠れなかったので」
「こんなところで寝るな。くたばっているかと思ったじゃねえか」
「すみません。涼んだら戻ろうと思っていたんすけど」
 ジャックはのぼせた頭で何も考えずにぽやぽやと返事をする。
「レオナ先輩はどうしてここに」
「真夜中に寮をうろつく音が聞こえたからな。とんだ不良がいたもんだ」
「面倒をかけちまったみたいっすね。すみません、もう戻ります」
 戻る、と言っておきながらジャックの体は動かなかった。
 足を冷たい水に浸した状態から抜け出したくなかったのではない、レオナの瞳から逃れられなかったのだ。熱が籠もった脳は指一本動かせない錯覚に陥り、呼吸はレオナに支配され荒くなっていく。
 するり、とレオナの手が伸びてジャックの頬に当てられる。
 レオナの生ぬるい体温はジャックを冷やすどころか、さらに熱くしていく。
「子ども体温だな」
「ガキじゃねえ……」
 喘ぐように呟くと、レオナは楽しそうに笑った。
 
 

「――ル、ハウル?」
 フィールの声に、意識が浮上する。
「あ、すんません、なんでしたっけ」
「殿下の女癖が悪いという話でしたが、大丈夫ですか? 暑いなら涼しい場所へ配置を変えてもらいましょうか。確か暑さに苦手と伺っていますが」
「いえ、大丈夫です。少し考え事をしていただけで」
 ジャックはぎこちなく笑った。
 学生時代の記憶が脳裏をよぎり、話し中にもかかわらず思いを馳せてしまっていた。
 あのときからだ。レオナとの距離がわからなくなったのは。一年がまもなく終わるという夏に、レオナと共有したあの時間が少しずつジャックを狂わせていった。
 狂った結果、今ジャックはここにいる。
 レオナを追いかけて、今ジャックは暑い暑い太陽の国に立っている。
 何を求めて、何を期待しているのか、わからないままに。
 ジャックはじんわりと滲む額の汗を拭い、もう一度フィールに微笑んでみせた。

 交代の時間が来て、小休憩を挟んだあとに次の持ち場へと移った。
 次は第二王子の寝室のある廊下が担当だった。空調の効いた屋内に入れてよかったと思うべきか、レオナの噂を聞いたときに限ってこんなところに行くなんて、と気分を害したままにしておくべきか。
 この廊下は何度か見張りを担当したことがあるが、レオナの姿を見たことは一度もない。だから顔を合わせて勝手に気まずい思いをすることは考えなくていい。だが、なんとなく嫌な気持ちになった。
 常に人通りがあった渡り廊下とは違い、プライベートエリアの廊下はしんと静まり返っていた。
 フィール曰く寝てばかりとのことだったが、正午を過ぎた今はさすがに執務エリアのほうに移動して仕事をしているのかもしれない。
 考えすぎずにいつも通り時間が経つのを待つことにする。
 ジャックは人がいないのをいいことに、こっそり片足立ちをしたり、わずかに膝を曲げて空気椅子をしたりとトレーニングをし始めた。
 少しでも動いていると気が紛れる。これは廊下担当三回目の頃に、あまりの人通りの少なさに根を上げて生み出した時間の潰し方だった。
 周囲に注意しつつ筋トレをして、涼しい屋内で汗ばみ始めた頃だった。
 廊下の奥、ジャックの背後で扉の開く音が聞こえた。あれはレオナの部屋の扉だ。
 瞬時にトレーニングをやめて姿勢を正す。
 日中にここを歩くのは使用人だけのはずだ。部屋の掃除か何かをしていたメイドが出てきたのだろう。
 真面目で仕事に熱心な新人ジャック・ハウル、に仕事中に筋トレをするサボり魔という不名誉な噂が流れないように背筋を伸ばす。
 体重の軽い足音――これは女性だろう。やはりメイドか? ――と、重い足音――これは男性、別の使用人か? いやしかしこの足の運び方は――の二つが耳に届く。
 そして、楽しそうな女性の声と、レオナの声。
「いやだわ殿下、そんな意地悪をされるなんて」
「レディ、私はこういう性分なんです。どうか諦めていただけないでしょうか」
 記憶にこびりついた学生時代の声よりも、紳士的で落ち着いた大人の話し方。聞いたことのない、相手を尊重する丁寧な声音。
「どうしてもお部屋の奥に招いてくださらないとおっしゃるの?」
「まだレディには早いので。さあ、父君が心配されてるはずだ、お送りしましょう」
 声と足音が近づいてくる。
 平静を装おうとしてもジャックの尻尾は膨らみ、全身の毛が逆立つ。
「もう、殿下ったら。また来ますからね」
「ええ、茶菓子を準備しておきましょう」
 二人がジャックの傍を通り過ぎる。
 まるで、自分たちのほかに誰もいないかのように女性は振る舞う――実際に、身分が下の者はいないも同然なのだろう。ジャックに話の内容を聞かれることにも、レオナの部屋から出てくる姿を見られることにも頓着していない。
 品のよい花の香水をまとわせた美しい金色の髪。ノースリーブのロングドレスから見える形良く鍛え上げられた二の腕。鈴のような可愛らしい声。レオナのものによく似たライオンの耳――ジャックにないもので構成された女性。
 レオナとは一瞬目が合った。
 すぐ逸らされてしまったが。
 レオナもきっとジャックになんの感情も抱かず、ただそこにいることを受け止めただけに違いない。
 独身の王族が女性と自室にいるところを護衛に見られて、一体なんの問題があるのだろう。
 些細な問題すら一つも思い浮かばなかったことに、胸が痛い。
 フィールの話を聞いて、感情を整理する前にその現場を見てしまうとは、運が悪い。気持ちが落ち着かない。
 第二王子の所属であることを示す、腕章に触れた。
 レオナの傍で仕えるというのは、先ほどのような光景を見続けるということだと、ジャックは今初めて気づいた。レオナが誰かを傍に置き、心を許し、生涯を誓うところを見守るのがジャックの仕事になるのだと。
 果たして、あの女性がいなかったとしたら、心を揺らがせるような事態に遭遇することなくレオナの傍にいられただろうか。
 考え込んでいたから、女性を送りに出て行ったレオナが帰ってきたことに気づかなかった。
 突然肩に手をぽんと置かれ、飛び上がる。
「護衛が警戒を怠っているようじゃ俺の首が危ねえな」
 目の前にニタリと笑うレオナがいた。
「あ、すんませ……申し訳ございません、殿下。以後注意いたします」
 即座に姿勢を正し、言葉遣いを改めてレオナの目を見ずに謝罪をする。
 レオナに会ったのは着任日以来で、つい学生時代のラフな言葉遣いが出てきそうになる。「っす」をつけておけば敬語になると育ってきたジャックにとって、きちんとした敬語は楽ではなかった。ひとまず声の小さなセベクを意識しておけばなんとかなるとこの一ヶ月で学んだ。だが、レオナ相手にそのような言葉遣いをするということが慣れず、今目の前にいるのは本当にあのレオナなのかわからなくなる。
「どこでそんな言葉を覚えたんだか」
 レオナの喉の奥で笑う癖は昔のままで、ジャックは自分だけが変化を強いられているように感じた。だが、そう思っていても軽口を叩くことなど許されない。学生時代も断固として許されたことはなかったが、レオナは黙認していた。今は例えレオナが黙認したとしても、周りが許さず処罰を与えてくるだろう。
「ジャック、見てみろ」
 レオナに言われ、レオナが差し出してくる手を見た。
 そこには華やかな刺繍のほどこされたハンカチが握りしめられていた。
「ベスが別れ際に、私のことをいつでも思い出して、と渡してきた」
「……ベスとは」
「さっきいた女だ。エリザベス・ワーリー。近衛師団団長の娘だ」
 愛称で呼ぶほど仲がよいのか。
「そうですか」
 顔は見えなかったが、垣間見えた体のパーツたちが彼女の美しさを雄弁に語っていた。
 腹の奥に醜いものがくすぶっているのをジャックは感じた。
「明日はメアリーが来るだろうな。内務大臣の姪だ。あとキャシーが来るかもしれない。まあ、そんなところだ。護衛を頼んだぞ」
「……はい」
 レオナはジャックの肩を握るように叩いて、軽やかに立ち去った。
 足音は遠ざかり、扉の開閉の音とともに消えた。
 とてもではないが、部屋に入るまで見守ることはできなかった。
 一人きりになった廊下で、ジャックは自嘲めいた乾いた笑い声を漏らした。
 私情に振り回されてろくに仕事もできない、レオナの言うとおり主を危険にさらすような護衛だ。
 もうジャックの追いかけていたサバナクロー寮の寮長であるレオナは存在せず、夕焼けの草原第二王子のレオナ・キングスカラーがいるのみなのだと言い聞かせなくてはいけない。
 いくら当時と癖が変わっていなくても、視線の温度が変わっていなくても、ジャックの知るレオナはいない。あのときと同じ距離で接していいレオナはいない。
 ジャックはレオナの部屋の扉を見た。
 あの扉の向こうにジャックは入れない。
 遠いどころではない。二人の間には見えない分厚い壁がある。
 手を伸ばしても、追いかけても、それ以上近寄ることを拒む壁がある。
 ここに来るべきではなかったのかもしれない。
 冷え切った体がジャックに現実を知らしめていた。

 護衛を頼むと言われても、翌日は非番だった。
 ジャックはいつもの早朝ランニングを終え、誰もいない食堂でコーヒーを飲んでいた。
 今頃メアリーという女性を部屋に入れて話し込んでいるのだろうか。それとも、昨日エリザベスが言っていた『お部屋の奥』に招いているのだろうか。
 ジャックはマグカップをテーブルに置いて、髪を乱暴に掻き回した。
 休日なのが悪い。嫌な考えを遮ってくれる仕事がない。
 窓から見える太陽は、まだ南にいた。
 時間が経つのが遅く感じられる。
 明日はメグとかいう女性だったか。シフトを思い出してため息をつく。朝一で第二王子の居室担当だ。なんてこった。
 ――いや、朝一なら十中八九レオナは眠っているはずだ。昼や夕方に担当するより一番当たりに違いない。顔を合わせなくて済むのならそれに超したことはない。今後はシフトの調整を願い出てみるか……。
「ハウル」
「は、はい!」
 ぼんやりと考え込んでいたら、突然食堂に現れた上官に名前を呼ばれた。
 厳しいことで有名な指導者だが、真面目に過ごしているジャックは必要以上に叱責されたことはない。ゆえに、業務時間外に名前を呼ばれても不思議に思うだけで、緊張感はなかった。
 素早く立ち上がり、上官の前に駆け寄る。
「何かご用でしょうか」
「ああ、休日に悪いんだが」
 普段はトレインのように眉間に皺を寄せ、きびきびと軍人らしく話す上官が、何やら言いにくそうに口ごもっている。珍しいこともあるものだと思いつつ、次の言葉を待つ。
「第二王子殿下のところへ行ってくれ」
「はい! ……は、い?」
 上官の指示に迷わず返事をして、遅れて脳に届いた言葉に耳を疑った。
「第二王子……殿下のところ、ですか?」
「ああ。殿下が貴様をお呼びだ」
「はっ」
 レオナからの命令ということで、作法通り背筋をぴしりと伸ばす。
「……あの、理由はご存じでしょうか?」
 軍法かなんらかに違反していそうだが、知ったことかと命令の詳細を聞いてみる。
 上官は気を害した素振りは見せず、答えてくれる。
「いや、理由はおっしゃらなかった。細かいことは殿下から直々にお話されるだろう。今すぐ身支度を整えて殿下のお部屋へ向かえ」
「はっ」
 昨日の今日で顔を見るのは気が進まなかったが、立場には逆らえない。
 ジャックは敬礼して上官が立ち去るのを待ってから食堂を後にした。

 第二王子の居室付近担当の同期に挨拶をして、分厚い扉の前に立つ。
 躊躇いつつ、待たせてはいけないと控えめにノックをした。
 入れという声に、ゆっくりと扉を開ける。
 重い音とともにレオナの姿が現れた。
 目の前にいることに驚いて一歩下がると、レオナに腕を掴まれて部屋の中へ引きずり込まれた。「どわっ」
 前につんのめると、レオナの胸に受け止められた。
「えっ……と……」
 臣下の礼を取ることも忘れ、レオナの手の熱さと胸板の厚さに固まった。服からは古い本の香りがする。
「いつまでも扉の前にいるもんだから、迎えに行こうか迷ったじゃねえか」
「す、すみません……」
 よた、と慌てて体を起こした。
 レオナの手が離れたところが少し寂しい。
 ジャックは迷いを振り切るために口を開いた。
「で、殿下……なんのご用でしょうか」
 レオナの顔を見ずに、使い慣れない敬語でたどたどしく聞く。
「フン……」
 レオナはそれに答えず、鼻を鳴らして部屋の中央のソファにどっかりと座った。
「そこに座れよ」
「はい」
 レオナの指し示す、ローテーブルを挟んだ向かいのソファにジャックはそっと座る。
 ――座ってよかったのだろうか。この前読んだマナーの教本にはなんと書いてあっただろうか。断って、もう一度勧められてから座る、というのはどこの国のマナーだったか。
 座ってから立ち上がるほうがマナー違反だろうかなどと考え込んでいると、レオナの笑い声が聞こえた。
 ちら、とジャックが目をやると腹を抱えて体を震わせるレオナが見えた。
「デカいなりで縮こまるなよ。そんなジャックは初めて見た。ああ、おかしくてたまらねえ」
 本当に面白いようで、レオナは涙を拭う。
「怖いものなど何もないって顔で、人の目を真っ直ぐに見るテメェはどこにいった」
 ジャックは慌てて目を伏せた。
「それは、もう学生時代のことなので……」
「そうかよ。あの頃の自分はもういないっていうのか?」
「いないわけじゃねえ、ない、ですが、社会人は仕事とプライベートで切り分けるのが当然なので」
 ああ、話しにくい。刃向かわないように、従順に、でも境界をしっかり引いて。
「今日は非番だろ? じゃあプライベートじゃねえか」
「ですが、身分にプライベートも仕事もねえ、ない、ので。殿下は殿下、俺、私は私で過ごすべきかと」
 ジャックがきっちりと引き直した境界をレオナが踏みつけてくるように感じる。
 もう昔のままじゃいられないと、もう忘れようと思ったのに。
「なあ、お前はどうしてここに来た」
「……」
 どうして、なんて。
「何をしたくて来た」
 そんなのは。
「誰のために来た」
 わかったら苦労しない。
 一人で他国に拠点を構えて仕事を探し始めたときの、あの期待に満ちた日々は消え去った。あのときはどうして頑張ることができたのか、もうわからない。
「目的がねえなら国に帰れ」
「えっ」
 レオナの言葉に思わず顔を上げた。
「目標はねえ、やりたいこともねえ、ここで立場を作らないと生きていけないような身分でもねえ。なら国に帰ったほうが有意義な生活ができるってもんだ」
「それは……」
 帰りたくない。
 咄嗟に思った。
 レオナの言うことはもっともだが、素直に頷けなかった。
「どうしてここに来たかなんて、もうわからなくなりましたが、帰ったら余計にここに来た理由がわからなくなります」
 めちゃくちゃなことを言っている自覚はある。
 だが、帰れと言われて、はい帰りますと帰ったら後悔することだけはわかっていた。
「我が儘だな」
 ジャックが俯いて拳を握っていると、レオナがローテーブルに手をついて身を乗り出した気配がした。
 なんの奇行だろうと気になったが、ジャックは俯いたままでいた。
 レオナの手がジャックの顎にかかる。
 無理矢理に正面を向かされ、レオナと目が合った。
 レオナの瞳は、学生時代と同じく何を考えているのかわからない色をしていた。
 レオナの息が唇にかかり、ジャックは思わず息を止めた。
「俺をめちゃくちゃにしやがって」
 今めちゃくちゃにされているのは俺のほうだ。
 そう言いたかったが、言葉が直接口の中に送り込まれる感覚に背筋が震えた。
 焦点が合わないくらいにレオナの顔が近い。
 唇が触れているのか触れていないのか、判断できない。ただただレオナを感じているところが熱っぽくてくらくらする。
 レオナの手がジャックの頬を撫でた。
 ――突如。
 大きな音を立てて扉が開いた。
「殿下ー! あなたのキャシーが来ましたわ!」
 顔だけを音のするほうへ向けると、ひまわりを背負ったかのような笑顔の女性が入り口に立っていた。
 女性の笑顔がみるみるうちに凍りついていく。
「でん……あなた……殿下……お前……」
 混乱している女性を見て我に返り、ジャックはレオナの胸を押して距離を取った。
 レオナの顔は見られなかった。
 そして。
「あ、ああ、あの、俺、私、かえり、もどり、かえ、帰る? いなくなります!」
 ジャックはうまく動かない舌で適当に言葉を絞り出し、レオナの部屋を飛び出した。

 宿舎への道を走る。
 視界はぼやけていた。
 自室の扉を乱暴に開けて、ベッドに倒れ込む。
 枕を殴りつけた。
 一体なんだってんだ。
 この休日に気持ちを整理して、新しい気持ちで仕事を再開したかったのに。
 一日を返してほしい。
 休日に呼びつけて、惑わせて、それなのに部屋に女性を呼んでいたとは。女性が来るとわかっていたのに部屋を訪れた自分が悪いのか? いや、予定があるのにわざわざ呼んできたレオナが絶対悪いだろう。
 ジャックはベッドの上でおおいに暴れた。
 ついでに少し泣いた。
 性格が悪いことは嫌というほどわかっていたが、あの場に女性が来るように仕向ける感性がわからない。当て馬にでもされたのか? 今頃レオナとキャシーは部屋の奥で燃えるような恋だかなんだかそんな感じのものを楽しんでいるのか?
 ジャックは、あの夏の続きを求めて、ここにやってきてしまった。
 レオナにとって、あの夏はあそこで終わったというのに。
 


「ねえお前、聞いているの?」
 刺々しい声に、ジャックは我に返った。
 約一ヶ月間の出来事を振り返っていても、女性三人の話はまだ終わっていなかった。
 数日前に目を白黒させるキャシーに出くわして逃げ出してからも、時折レオナから名指しで呼ばれ、部屋に招かれることがあった。だが、特に何があるというわけでもなく、仕事をしたりソファで眠ったりするレオナを見守るだけだった。少し距離が近すぎると思ったこともあったが、何もなかった。
 三人の女性がレオナの隣にいる場面には何度も遭遇した。そのたびにジャックは泣きたいような怒りたいような衝動を抑え、目を瞑ってやり過ごした。その衝動に名前があることを知ったが、気づくのが遅すぎた。
 生涯にわたって一人を愛する狼の獣人属にとって、横恋慕だけならまだしも、略奪というものは非常に重い罪悪である。ジャックは、レオナの心に三人の女性が居場所を作っているのなら、この気持ちはなかったことにしようと誓った。レオナをこっそり想っているうちに、奪いたくなってしまうだろうと思ったからだ。いささか気持ちの向き先が多いようにも感じたが、将来一人に絞るのだろう……もしかしたら三人とも囲うのかもしれないが。
 そして今、エリザベスにキャシー、そしてメアリー。レオナと噂されている女性たちに囲まれ、ジャックはやはり自分が呼ばれた理由がわからなかった。
「レオナせん、殿下のことを何も知らないのはそうだと思うんですが。だからといってこんな」
「ここに呼んだ理由が牽制だと思った?」
 亜麻色のメアリーは鼻で笑った。
「私たち由緒ある家の娘たちが、お前のような庶民相手に何をすると思って? 国に帰れと脅迫でもすると思って? お前なぞ敵でもなんでもないわ」
「メアリーはそう言っているけれど、違うのよ。お前も失恋したのでしょう、殿下に」
「お前も?」
 ジャックが聞き返すと、黒髪のキャシーは静かに微笑んだ。そこに敵意は見えなかった。
「私たちはそれぞれ家から送られてきた。王室と確固たる繋がりを作るために、まだ独身でお相手も決まっていないレオナ殿下に近づいたわ。でも気づけば一人残らず殿下の虜になっていたの。私たちは政治的なライバルから恋のライバルになった。でも、殿下は私たちの中から誰かを選ぶことはしないと知ったときから、傷をなめ合い励まし合う友人になっていたわ」
「キャシー。私は友人のつもりなんてございませんわ。全員ぶちのめしてみせますもの」
 金髪のエリザベスは涙目で、ジャックと二人の女性を見回した。
「失恋だってしておりません。まだ時間が必要なだけで。あなたがたはレオナ殿下を諦めたのかもしれませんが、私は諦めませんわ」
「エリザベス。あの方が誰も選ばないことは充分わかったはずでしょう。これ以上はあなたが惨めな思いをするだけよ」
 メアリーが説得するようにエリザベスに言う。その声音はジャックに向けるものと正反対で、懐に入れた人間にはとても優しい人であることが伺えた。
「それでも……それでも私は殿下のことをお慕いしているのです」
 喉から絞り出したエリザベスの声に、ジャックは腹の奥に押し込めたはずの気持ちが蓋を押し上げようとしているのを感じた。
「本当に酷い人よね」
 キャシーは目を細めて言った。その表情から、本当にレオナのことが好きで、そして諦めてしまったのだとジャックは察した。
「私もメアリーも殿下に振り向いてもらう努力をすることに疲れてしまったわ。お前はどうなの。失恋、したのでしょう?」
「俺は……」
 失恋は、した。したと判断して、気持ちを押し殺すことにした。だが、皆の言う失恋が諦めと同義であるのなら。
「俺は、失恋などしていません。殿下……いえ、レオナ先輩が誰も選んでいないなら、諦める理由がない」
「エリザベスと同じく苦しむだけなのにねえ」
「それでもです」
「変な男」
 メアリーとキャシーはジャックを見てため息をついた。
「殿下に近づこうとしたのは私たち三人だけじゃないわ。皆、自分ならいけると信じて砕け散っていったの。好きにならなければ、事務的に距離を縮めて目的を果たせると思い、好きになってしまったの。とんだ魔性の人なのよ、殿下は」
「魔性、ですか」
「ファム・ファタールとか言ったかしら、どこかの言葉で」
「違うわ、それは魔性の女でしょう。私たちがなれなかった女よ。殿下はオム・ファタール、魔性の男」
 涙を溜めて俯いているエリザベスをよそに、メアリーとキャシーは好き勝手に話している。
 二人曰く、レオナは魔性の男らしい。
 確かにレオナの気まぐれに振り回されているのは事実で、この場にいる四人それぞれがレオナに苦しめられていた。
 嫌うことができればいいのに、どうしようもなく惹かれてしまう。一挙一動に心を揺さぶられてしまう。それがジャックにとってのレオナという存在だった。
「……なら、俺がレオナ先輩のオム・ファタールになってやる」
「今、なんと?」
 ジャックの言葉に、メアリーが目を見開いた。
「レオナ先輩に俺を選ばせてやるって言ったんです」
「……変な男ね」
「今まで殿下の傍にいなかったわ、こんな人」
 メアリーとキャシーはジャックを品定めするようにじっくりと見た。
「あなたも殿下に人生を狂わされたというのに、よくもまあ、そんな気力があること」
「十年以上、先輩を追いかけてきました。ずっと追いかけるつもりでここに来ました。だから、気力はあって当然だ」
 レオナが誰かを選ぶ可能性を考えていなかったので動揺したが、持ち直したジャックは何年でも何十年でもレオナを追いかけ続ける決意を蘇らせていた。
「そう……好きにすればいいわ。エリザベスは期限を決めて諦めなさい。この男はいくらでも傷つけばいいけれど、あなたが傷つくのは私たちが悲しいわ」
「嫌です……」
 エリザベスはキッとメアリーを睨むが、メアリーは顔色一つ変えなかった。
「いつかわかるわ……お前にもう用はないわ。もう出て行っていいわよ」
 メアリーはエリザベスの手を優しく握り、ジャックに冷たく言い放った。
 最後までよくわからない集まりだった。しかし、きっと悪い人たちではないのだろう。ジャックは軽く頭を下げて、淑女の部屋を出て行った。


 オム・ファタールになろうと思ってなれるのなら苦労しない。好き勝手やって、周りを振り回して疲弊させるレオナが天性の悪魔というだけの話だ。同じことをやっても、レオナを振り回せるとは思えない。そもそも、振り回せるのはレオナがジャックを好んでいてくれる場合のみの話だ。
 今どう思われているのかはわからない。
 近寄ってきたと思ったら遠ざけるようなふざけた態度ばかりのレオナだ。考える前に行動したほうが早い。
 
「レオナ殿下、好きです! では!」
「……待て」
 レオナにまた部屋に呼ばれたジャックは、ソファで眠るレオナを数時間見つめてから去り際に大声で告白した。
「なんですか。交代の時間なんで行かないと」
「なんですか、じゃねえよ。寝起きになんてことを言うんだ。聞こえなかったからもう一度言え」
「寝てたほうが悪いんじゃないすか。俺はちゃんと起こしてから言いましたよ」
「起きてすぐに言われても何も理解できねえよ」
 ジャックは、ちゃんとレオナの肩をどついて起こしてから言ったのに聞いていなかったとは何事か、と不満たらたらの顔をしていた。
 レオナは眉間に皺を寄せて何回もまばたきをしている。
「せん、殿下のことが好きって言ったんです。そのうち振り向かせてやるので覚悟しておいてください。ちゃんと聞きましたね? じゃ、交代に遅れると怒られるんで、これで失礼します」
「待て、おい」
 ぱっちり目が開いているレオナに宣戦布告をして、これで満足と頷き、ジャックは意気揚々とレオナの部屋を出た。
 背後からガシャン、と物を落とす音が聞こえた。
 次の担当場所に向かいながら、スマホを取り出してぽちぽちと文字を打つ。
『好きだと言ってやりました。ここからが俺の戦いです』
 すぐに新しいメッセージが表示される。
『本当におかしな男ね』
『そんなことで殿下の気持ちを掴めると思わないことですわ』
『律儀にも程があるわよ』
 送り主はメアリー、エリザベス、キャシーの三人。先日、三人から再び呼び出しを食らい、なぜか連絡先を交換する羽目になっていた。チャットのグループ名は「ファタール会議」。いろいろ言いたいことはあったが、だいぶ大人になっていたジャックはすべて呑み込んで曖昧に笑った。
 何か進展があったら連絡すること、と一方的に命令され、とりあえず簡単な報告だけはすることにした。何しろジャックには後ろ盾も仲間もいない。意味も無く逆らうことにメリットがないことはよくわかっていた。
『このあと何をするかは決めてないですが、とりあえず頑張ります』
『調子に乗りすぎないことね』
『計画もなしに挑むものじゃありませんのよ』
『今後が楽しみだわ』
 何を楽しみにされているのやら。
 淑女が野次馬をするのはどうかとジャックは顔をしかめるが、彼女らは恋破れた立場だと思うと強く言うこともできなかった。


「おいジャック」
「はい、殿下」
「……この前の話だが」
「あ、フィールさんがこの書類は必ずサインをほしいと言っていました」
「ああ……」
 告白はしたものの、次に何をすればいいかわからず、ジャックは思いつくまで仕事に専念することにした。
 頭と体をしっかり動かしていればよいアイディアが生まれるに違いない。
 今日もレオナの部屋に呼ばれ、レオナに熱視線を向けないことにジャックは集中していた。
「それでだ、ジャック。お前が言っていた件についてだが」
「それなんですが、仕事とプライベートは切り分けるべきかと」
「ホァ?」
 何か手を思いつくまで、告白の件を蒸し返してほしくなかった。振り回すのはこっちの役目なのだ。レオナにその話を持ち出されたら主導権を奪われてしまう。
「今は私も殿下も仕事中ですから」
 フィールに託された書類をレオナに渡して、ジャックは姿勢を正した。絶対に恋の主導権を握らせてはいけない。
「それはそうだが……調子が狂うな」
 レオナは一言ぼやき、ため息をついた。

「で、だ。仕事の時間は終わったな?」
 終業時刻になり、そそくさとレオナの部屋を立ち去ろうとしたら、手首を掴まれた。
 明日からは終業間際の担当から外してもらえないか交渉しないと、と思いながらジャックはレオナをそっと見た。
 レオナはぎらりとした目つきをしていた。
 思わずその目に怯み、後ずさる。
 レオナの仕事を見ている間必死に頭を回転させていたが、何も思いついていない。無策でレオナに挑まないといけないのか。
「プライベートの時間だ、ジャック・ハウル」
「……はい」
 ジャックは全身の髪がびりびりと逆立つのを感じた。
「テメェはどうしてここに来た」
「そこからっすか? っていうか前にも聞いたような」
 てっきり先日告白した件を詰められるものかと思っていたので、ジャックは拍子抜けして肩から力が抜けた。
「その、レオナ先輩を追いかけて……先輩の傍にいたかったから」
 以前は答えられなかった言葉を改めて口にすると、少し恥ずかしい。
 レオナのことだけを思って海を渡り、数年かけてここまで辿り着いた。自分でも驚くべき行動力だと思う。
「俺なんかのために、よくそこまでやるよな」
 レオナは驚いたのか呆れたのか、こめかみを揉んだ。
「俺なんかって。レオナ先輩だからここまでやったんです」
「大体、俺らは終わったと思っていたんだが」
「は? 終わるもなにも、始まっていたんですか?」
 レオナの言葉にジャックは目を剥いた。
 勝手に終わらせられて、どうしろと。
「俺、アンタに何も言われてないんですが」
「卒業式のこと、忘れたのか?」
「忘れられるわけねえっすよ」


 レオナが卒業した日。
 ジャックはレオナに連れられて、式典服のまま中庭を歩いていた。
 学園内にいるレオナの姿が今日で見納めだと思うと、感傷的な気持ちになる。
「これで自由気ままな学生生活も終わりだな」
 ぼそりとレオナが呟く。
「卒業したら何をするんですか」
「さあな。国でしけたツラの老いぼれ相手に革命でも起こしているか、寝ているかのどちらかかもな」
「先輩のことだから、寝ながらデカいことをやってのけそうっすけど」
「どうだか」
 レオナは憂鬱げに天を仰いだ。
 長い式典が終わり、空は赤く染まる時間になっていた。
「寂しくなりますけど、頑張ってください。それと……卒業、おめでとうございます」
 ジャックは言葉を選びに選んで、結局ありきたりなフレーズを声に出した。
 卒業しても会いたいだとか、連絡したいだとか、言えなかった。ジャックのこの感情に名前などなく、また二人の関係も先輩後輩の枠を出ることはなかった。
「ああ、ありがとう」
 レオナがジャックを見た。
 そこにはいつもの皮肉めいた笑みが浮かんでいた。
「ジャック、髪にゴミがついている。取ってやるから頭を下げろ」
 レオナがジャックに手を伸ばす。
 ジャックは素直に頭を下げた。
 レオナが研修でいない一年間で身長はさらに伸び、二人の差は頭一つ分になっていた。
 膝も曲げたほうがいいかと考えていると、レオナの手がジャックの頬に触れた。
 驚いてレオナを見ると、額に湿った感触があった。
「レオナ、先輩……」
 レオナはぽかんとしているジャックを見て、大口を開けて笑った。
「じゃあな、ジャック」


「あれが別れの挨拶だとでも言うんすか?」
 てっきり、レオナの心がジャックに少し傾き始めたのかと思っていた。
「始まってもいない状態で、デコにキスされてさよならってわかるかよ!」
「雰囲気でわかれよ」
「じゃあなんすか、俺たちいつから始まっていたんですか」
「俺がオーバーブロットしたあたりか……?」
「そんとき、俺、レオナ先輩のこと全然好きじゃなかったんですけど」
「嘘だろ、俺を追ってNRCに入学したんだろ」
「散々俺を失望させといて、それ言うんですか。先輩が正々堂々熱意を込めて学生生活を送る人だったら、入学したときから始まっていたかもしれませんね」
 売り言葉に買い言葉である。
 勝手に関係を始めて終わらせて、一体どこまで人を振り回したら気が済むのか。
 へらへらと笑うレオナを見て、ジャックは好きという感情以上に怒っていた。
「でも、結果的にそんな俺を好きになったんじゃねえか」
「結果論じゃないすか。入学前はもっとかっこいい人だと思っていたのに!」
「今だってかっこいいだろうが」
「それはそうっすけど」
「なんでそこで認めるんだよ」
「かっこいいのに変わりはないので」
 怒っていても嘘をつけないジャックは、自分の言葉で場の空気が重くなったことに気づいた。先ほどまでの軽い応酬はもうできない。
「はあ……俺は終わったと思っていたんだよ。学生時代のいい思い出にしてよ、たまに思い出してあの頃はよかったと酒の肴にでもするつもりだった」
 レオナは真面目な顔で話し始めた。
「十年近く連絡をよこさないし、テメェも終わらせたもんだと思っていた。そんなときにこれだ。いきなり現れやがった」
 レオナの軽く握られた拳がジャックの胸に当てられ、熱の籠もった瞳がジャックを貫く。
「俺を振り回すのが得意にも程があるだろ」
 強い瞳に一瞬たじろいだが、言いたいことは全部言わねばと、ジャックは息を吸った。
「振り回していたのはレオナ先輩のほうですよ。学生時代もそうでしたし、今も。久しぶりに会えて喜んでくれたかと思いきや、女の人を侍らせて、それなのに俺を部屋に呼んで、それで国に帰れと言ったり。ようやくアンタのところまで辿り着けたのに、先輩は俺をどうしたいんですか」
「再会できたら喜ぶに決まっているだろう。何年ぶりだと思っているんだ。つい気が緩んで傍に置いておくことを承諾したがな、ここにテメェの居場所はねえ」
 瞳とは真逆に、レオナの声は酷く冷たかった。
「ほら、そうやって俺を振り回すじゃないですか」
 ジャックは唇を噛みしめ、鼻の奥のツンとした痛みを堪えた。
 振り回したくっても振り回されてくれないし、振り回され続けるし、それでもレオナの傍にいられたら充分だというのに。
「先輩のこと、ずっと好きなのに。大好きなのに。この気持ちが恋って気づいたの最近なんすけど、先輩は俺のことちっとも好きじゃないんですか。喜んでくれたのは、久しぶりに後輩に会えたからなんですか」
 熱い涙が両目から溢れ出てきた。
 拭っても拭っても涙は止まらない。
「じゃあなんだよ、テメェは俺を臣下に手を出す主にする気か?」
 レオナが苛立たしげな声を出し、ジャックの頬に手を当てて涙をすくい取る。
 その優しい手が憎たらしくて、ジャックは地団駄を踏んだ。
「手、出してくれないんですか」
「外聞ってモンがあるだろうがよ。他国の庶民のほうが純愛ものとして受け入れられやすいってのに」
「好きな人のために海を渡り要職に就いて口説き落としたってのは純愛ものにならないんですか」
 ぐずぐず泣きながら、ジャックは思いついたことをぽんぽん口にする。
「家臣に手を出すってのがまずいんだわ馬鹿。婚約者候補として女を送ってくるならまだしも、これが知れたら次はメイドが大量に送り込まれるんだぞ。まったくもってよろしくねえわ」
 レオナはジャックの目元を撫でて言う。そして、ハンカチを取り出して目に押しつけた。
「ほら、いい加減泣き止め。サバナクローの男は恋愛ごとでぴーぴー泣かねえんだぞ」
「先輩が、俺のこと好きになってくれるまで泣き止みません」
 ジャックはしゃっくりしながらレオナを睨みつけた。
「お前な、そろそろ雰囲気くらい読めるようになれよ」
「ちゃんと言ってくれないとわからないです」
 なんとなく雰囲気を読んだ結果、とんだすれ違いでここまで来てしまったのだ。言葉にしろとジャックは唇を尖らせた。
「……お前のことが好きだ。卒業してからも、今日まで思い出さない日はなかった。だから俺が我慢できているうちに国に帰ってくれ。必ず迎えに行くから」
 ため息交じりのレオナの告白に、ジャックは胸がくすぐったくなるのを感じた。
「お前がここにいると思うと、仕事中はお前がどうしているのか気になってしまうし、目の届くところに置いておいても集中できない。俺のためだと思ってくれ」
 懇願のようなレオナの声音にジャックは気分がよくなる。レオナにお願いをさせることができる人間はそうそういない。もっと困らせたい。
「嫌です」
 はっきり断ると、レオナの顔が引きつるのが見えた。
「俺がいない間に女の人を連れ込まれたら嫌ですし。エリザベスはまだレオナ先輩のことを諦めていないんですよ。メアリーやキャシーはエリザベスを止めようとしていますけど。エリザベスの言っていた『お部屋の奥』で何をしていても、俺は気づけないんで」
 ツンと顔を背けると、レオナの手がジャックの手を強く握った。
「随分とそいつらと仲良くなったみたいだな」
「先輩のおかげですね。グループメッセージでやりとりする仲になりました」
 妬いている、のだと思う。ジャックの勘が外れていなければの話だが。今まで散々妬いた分、レオナも焼き餅を焼けばいい。
「レオナ先輩がどういう意図であの人たちを部屋に呼んでいたか知りませんけど。見せつけるようなことしてくれましたよね。まさか、俺を国に帰らせておいて好き勝手楽しんだりしないですよね」
 レオナの確かな言葉が欲しくて、ジャックは煽りに煽った。レオナから顔を背けたまま。
 だから、気づかなかった。レオナの瞳がぎらりとひときわ強く光ったことに。
「そんなに部屋の奥に行きたいって言うなら案内して差し上げますよ、ハニー。誰も入らせたことのない部屋の奥にな」
 ぐい、とレオナがジャックの手を引いて部屋の奥の扉を開け放つ。
 扉の向こうは寝室だった。
「フィールでさえもここに入れたことはねえ――掃除にメイドが来る程度だが。言っている意味はわかるな?」
「えっと……」
 ジャックは選択をミスしたことに気がついた。部屋の奥がそれを意味している可能性に思い至らなかった自分の愚かさを悔いて。
 必死に言葉を紡ごうと考えている間に、レオナにベッドに放り込まれた。まとわりつく寝具から、レオナの匂いを強く感じる。
 みしり、と軋む音とともにレオナがジャックに馬乗りになった。
 ジャックの心臓がばくばくと激しく危険信号を発する。
「その……これは夕食前の休憩、ですか……?」
 ダメ元で冗談を言ってみる。なんとか平和に昼寝にでも移行できたら。
「そうだな、夕食前のちょっとした腹ごしらえだ」
 駄目そうだ。
 レオナの長い指がジャックの顎を撫でた。
 くすぐったさに息を吐くと、自分の吐息が熱っぽいことに驚く。無意識の期待を認めるしかなかった。
 互いに望んでいるのなら仕方ないと、ジャックはレオナの首に手を回した。


「なんなのかしら、それは」
 渡り廊下歩いていると、つっけんどんな声が聞こえた。淑女三人衆だ。
「首のそれは、虫刺されかしら」
 ひんやりとした声音にジャックの顔が引きつった。
「それは、その」
「突然退職すると言うから顔を見に来てみれば、これですものね。信用なりませんわ」
 エリザベスに睨まれ、ジャックは尻尾を垂らした。
 昨日、レオナに説得されたジャックは可能な限り早く退職させてほしいと上官に願い出て、明日でここを辞めることになった。上官の表情から察するに、レオナから事前に話が通っていたようだ。
「レオナせん……レオナさんは」
「ハァ? レオナさん、ですって? ハァ? 殿下と呼びなさいよ殿下と!」
 眉間に皺を寄せてエリザベスは声を荒げた。
 もう先輩呼びは勘弁してくれとレオナに言われたのだが、それが気に食わないらしい。
「ベス、落ち着いて。この男はもうここからいなくなるのだから」
「そうよ、いつでも奪えるようになるのよ」
 心にもない言葉でメアリーとキャシーがエリザベスを落ち着けようとする。
「いいこと、ジャック・ハウル。お前より私のほうが殿下のことを知っておりますのよ。虫刺されの一つや二つくらいでいい気にならないことね」
 目を潤ませて、エリザベスは荒々しく去っていった。
「悪いわね、公式発表が出たらさすがに諦めると思うわ」
「いえ……気持ちだけは自分の勝手にならないものなんで。次会うときは、正々堂々熱意しっかり叩きのめそうと思います」
「お手柔らかに」
 メアリーとキャシーはジャックにそっと微笑んだ。
 そして。
「早いけれど、婚約おめでとう。きっと殿下なら渋る侍従長たちを説き伏せられるでしょう」
「許可が得られなくても強行突破するに決まっているわ。殿下ですもの」
「では、お元気で」
 優雅に一礼して二人はジャックに背を向けた。
 まったく、嵐のような人たちだった。
 あの三人からレオナを奪うことに罪悪感はまったくなかった。出し抜いたわけでも、汚い手を使ったわけでもない。ただ、レオナがジャックを選んだというだけだ。


「フィールさん、お世話になりました」
「ええ。またお会いできることを楽しみにしていますね」
 翌日、使用人の出入り口でジャックはフィールと握手を交わした。レオナとどたばたしていたときに随分と気を遣わせてしまったようだ。ただでさえレオナの世話でいっぱいいっぱいなのに、さらに心労を負わせてしまった。
「ハウルの行く末に幸せがありますように」
「ありがとうございます」
「……ったく、正門を使えばいいのに、こんな狭いところで」
 別れを惜しんでいると、レオナがのんびりと歩いてきた。
「目立っていいことなんてないんで」
「俺をこんな裏口まで呼びつけやがって……すぐ迎えに行くから元気でいろよ」
 レオナはジャックの頬に軽くキスをした。ジャックも身をかがめてレオナの背中に腕を回す。
「レオナ先輩も」
「先輩じゃねえだろ」
「レオナさんも、ちゃんと朝起きて野菜食べて、仕事して、フィールさんに迷惑かけないでください」
「うるせえな」
 文句を言うレオナの声は笑っていた。
 最後にきつく抱き合って、名残惜しく体を離した。
「帰ったら連絡しますね」
「国境出る前にも連絡しろ」
「はい」
 スマホを振ってジャックはレオナに背を向ける。
 次にこの国に来るときは、レオナと家族になっているだろう。
 ジャックは熱い空気を胸いっぱいに吸い込み、足を踏み出した。




ファンクラブの女の子とドンパチやる話を書きたかった
Pixiv投稿2025.9.2

レオジャク,短編

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