これはおいしいお寿司

No.59

指先

-駄目だと思うほど好きになるやつ

「落としたぞ」
「……っす」
 ペンを落とした。
 拾ってもらった。
 手渡された。
 指先がぶつかった。
 瞳の中に目を見開いている自分が映っていた。
 ペンがまた落ちた。
「ちゃんと受け取れよ」
「すみません」
 震える手でペンを握りしめた。

 レオナの指先の感覚がまだ残っている気がする。
 ジャックは授業中に自分の指を見つめていた。
 丁寧に整えられた爪。
 ささくれのない指。
 あれを人は美しいとラベリングするのだろうか。
 ほんの少し自分より低い体温。
 触れた瞬間、体温を奪われたかのようにぞくりと指先から体中へ震えが走った。

「レオナ先輩ってかっこいいよな……」
「ジャック、それ今日何回目だ」
 昼食の時間、大食堂で肉を頬張るレオナを見て呟くと、隣のデュースに脇を小突かれた。
「一回目か?」
「この昼休みだけで八回目だ。授業中を含めたらもっとだろ」
「そんなにか」
「そんなにだ。キングスカラー先輩がかっこいいのは今に始まったことじゃないだろう。最近のお前はなんだかおかしいぞ。さっきも料理を注文する前にキングスカラー先輩をじっと見ていたし」
「それは……」
 何を食べているのかなんとなく気になってしまっただけで。
「いつもはすぐ注文するのに、今日はずっと悩んでいたし」
 豪快かつ上品に食べているのを見たら同じものを食べたくなってしまっただけで。いい値段だったから注文はできなかったが。
「別に、何ってわけじゃねえよ」
 デュースに言われ、ジャックは冷めた肉に手をつける。
 なんとなく、なんとなく。
 なんとなくそうしていただけだ。
 大した理由はない。
 ペンを落とした日からだった。
 どこにいてもレオナの姿を追ってしまう。
 大食堂にどれだけ生徒がいようと、遠い廊下の先にいようと、レオナの鮮やかなベストの色が目に飛び込んでくる。
 チョコレートのように甘ったるい色の髪と、メロンのようにみずみずしい瞳がジャックの目を惹きつける。
 周囲の人が背景になり、レオナだけがはっきりと見える。
 レオナの気配を感じるだけで尻尾が揺れ、エースやエペルから「レオナアンテナ」と呼ばれる始末だ。
 それだけならまだよかったのに、授業中でも窓の外にレオナを見かけると、意識がそちらに集中してしまう。
 ノートはみみずがのたくったような線で埋まり、この前は飛行術の時間に箒から落ちかけた。
 錬金術の大釜は爆発するし、部活では測定のときにフライングを連発するし、もう駄目かもしれない。
「体調不良なのか知らないけど、気をつけろよ」
「ああ。悪いな」
 デュースに肩を軽く叩かれ、ジャックはため息をついた。

 一日を終え、寮に戻る。
 薄々わかっていたことだが、デュースに改めて指摘されると自分の状態が異常だとしか思えない。
 ずっと憧れていた人とはいえ、周りに知られてしまうのは気恥ずかしい。
 それでも、レオナが寮に戻ってきたときの足音に反応してしまう。
 談話室でウンウン唸っていたジャックの耳と尻尾がピンと立つ。
 出迎えに行きたくてうずうずしているが、堪えてソファに座って談話室の入り口をちらちら見る。
 足音が近づいてくる。
 レオナがもうすぐやってくる。
 早く顔を見たい。
 ちら、と入り口を見ると、レオナの姿が見えた。
 ジャックの指先がじわりと冷たくなる。
 そして、談話室に目をやってそのまま通り過ぎていった。
 すぐいなくなってしまったことに少し落胆したが、一日の終わりにレオナを見ることができて自然とジャックの頬は緩む。
 今日もよい一日だった。
 食事をするレオナを見られたし、中庭で大の字になって眠るレオナも見られた。珍しく飛行術の授業で箒に立っているレオナだって見られた。風を掴むように開かれた手はとても大きくて。
 ――ふと、レオナの指先を思い出して心臓がばくばくと音を立てる。
 冷たくてさらりとした指。
 忘れられない。
 おかしいんだろう、おかしいんだろうな。
 高揚と同時に不安が込み上げる。
 ふらりと立ち上がって談話室を出ると、少し離れた廊下に腰を下ろして外を眺めているレオナがいた。月の青白い光に照らされて、物憂げな表情に見える。ジャックの胸の奥がみしりと音を立てて痛んだ。
 レオナに気づかれないよう、ジャックは柱の陰に隠れる。
 レオナを盲信している寮生は数え切れないほどいるが、レオナを見る度に様子がおかしくなる生徒は見たことがない。
 自分だけがおかしいのか、おかしいのだろう。
 当たり前の日常を送らせてくれないレオナのことを、なんとも思わないようになりたい。
 こんなに大好きなのに、心臓が痛くてたまらない。
 ジャックは自分の中に浮かび上がった言葉に驚き、否定した。
 レオナのことはそういう好きじゃない、尊敬や憧れであって、だから、そんな恋のような。
 首を横に振って、新しく浮かび上がってきた言葉を思考の彼方へ遠ざける。
 駄目だ。
 よくない。
 これ以上はまずい。
 先輩を尊敬する後輩でいたい。
 そうあるべきだ。
 そう……そうだ、食事は全部ラギーに持ってこさせるし、寝ていい場所ではない中庭で授業をサボって眠っている。箒に跨がらず立って操縦することは本来危険行為でやってはならない。
 悪いところはいくらでも挙げられる。
 寮対抗のマジフト大会は最悪な事件だった。
 朝は絶対起きないし、王族だからって普段の態度が傲慢すぎる。
 真面目に過ごしていれば絶対進級できるのに留年している。
 頭はよくて魔力はずば抜けていて、それを発揮すべきところでサボっている。
 できるのにやらないなんてとんだサボり魔だ。
 そう、それらを見る度に尊敬する気持ちは失せていったはずで、レオナへの憧れは褪せていったはずだった。なのにどうしてレオナを追いかけてしまうのだろう。
 失望をそれ以上の輝きで上書きしてくるのが悪い。
 普段サボってばかりなのに、本当に困ったときには力を惜しみなく使って解決へ導いてくれる。
 普段眠ってばかりだからこそ、起きている姿を見て喜んでしまう。
 凡人が真似をすれば危険な箒の立ち乗りを、難なくやってのけるところがかっこいい。
 生活の一切を人にやらせることに躊躇わないところに、別格さを感じる。
 駄目だ、どうしたって嫌いになれない。
 ほかの人ならただの欠点でしかないところも好きだ。
 駄目なところもひっくるめてすべてが好きなのだと、ジャックの張り裂けんばかりに痛む心臓が叫んでいる。
 この苦しみを吐き出してしまいたい。
 楽になりたい。
 ジャックは廊下を一歩ずつ歩き、レオナに近づいていく。
 どうしたらもう一度普通の後輩に戻れるだろう。
 あの指の感触を忘れたい。
 レオナの背後に近づいても、レオナはぴくりとも動かなかった。
 空を見上げているレオナの隣に立つ。
 レオナは無言で、ジャックなどいないように星を見つめ続けている。
「……レオナ先輩」
 乾いた喉から声を絞り出すと、レオナの耳だけがジャックのほうを向いた。
 手のひらに収まりそうな小さな耳。
 そんななんてことのない体のパーツですら、見るだけでジャックの指先を震わせる。
「好きです」
 考える前に言葉がこぼれ落ちた。
 レオナは動かない。
 沈黙が恐ろしい。
 完膚なきまでに断られたら、胸の痛みが消えると思った。
 レオナだけが助けてくれると思った。
 それは浅慮だったのかもしれない。
「すみません、突然変なことを言って」
 振ってすべてを終わりにしてくれない非道さが恨めしい。
 恨めしいのに、レオナのことはまだ好きなままだった。
「じゃあ……おやすみなさい」
 唇を噛みしめ、ジャックはその場を離れようとした。
「ジャック」
 好きな人に名前を呼ばれることが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
 場の空気など考えず、耳から脳へ信号が送られて尻尾が揺れる。
 どれだけ冷たい音であろうと、レオナの口から出てくる自分の名前が美しく響いて泣きたくなる。
 体全体が心臓になったかのように鼓動がうるさい。痛い。
「どうしてそんなに辛い顔をしているんだ」
「レオナ先輩のことを考えると、ここが痛くて」
 ジャックは自分の左胸を掴んだ。シャツに皺が寄る。
 レオナがゆっくりとジャックのほうを見る。
 月明かりに照らされた瞳は冬の森の色をしている。
「俺は好いたやつには笑っていてほしい。どうしたらお前の痛みはなくなるんだ」
「わからねえ……先輩のこと、嫌いになれたら痛くならないかもしれない」
「そうしたら俺の胸が痛くなる」
「レオナ先輩が痛くなるのは困ります。どうしたらいいんですか」
 縋るような気持ちだった。
 こちらを見上げるレオナの眉はひそめられていた。
 どうしてそんなに悲しい顔をするのだろう、痛くて辛くて悲しいのはこっちなのに。
「ジャック、手を出せ」
 言われるがまま、その場にしゃがんで手を出した。
 あの日、レオナに触れたほうの手だ。
 レオナの手がゆっくりジャックの手に触れる。
 指先だけでなく、手のひらと甲で低い体温を感じる。
「お前の手は温かいな」
 熱いくらいだ――とレオナが呟く。
「……レオナ先輩の手は冷たいです」
 ジャックの体は小さく震えていた。
「まだ胸は痛いか」
「わかりません」
 そう答えると、レオナは触れていたジャックの指先に唇を落とした。
 ジャックは驚いて尻餅をつくが、手はレオナに握られたままだった。
「まだ胸は痛いか」
「……今は尻のほうが痛いっす」
「それならよかった」
「何もよくねえ」
「ジャック、好きだ」
 レオナの言っている意味がわからなくて、ジャックはじっとレオナを見つめる。
 レオナはもう一度口を開いた。
「好きだ」
 言葉を理解した途端、心臓がうるさいことは変わらないのに、痛みが引いていく。
 どきどきして呼吸がうまくできないのに、苦しさを感じない。
「やっと笑った」
 そう言われて、ジャックは今自分が微笑んでいることに気づいた。
「そうやってずっと笑っていてくれよ」
「レオナ先輩が俺をずっと笑わせてくれるのなら」
 その優しい瞳に自分が映っている限り、心臓が痛むことはないだろう。
 ジャックはレオナの冷たい手をそっと握った。




Twitter投稿2025.8.16

レオジャク,SS

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